第二天覧場の下にあり、青雲山と号し、飯能町能仁寺の末寺にて能仁の四世格外玄逸を以て開山とせり(元逸は慶長九年さ肅)されども之を当寺安置の古霊碑に徴すれば、其創建は遠く応永年間にあるが如し、其能仁の四世を以て開山とせる所以は蓋し能仁盛大なりし頃、当寺を併せて末寺となし、新に開山を置きたるならん。古霊碑を案ずるに面に真寂山翁仁公庵主霊と銘し、背に加治豊後之新左衛門尉丹氏朝臣貞純応永丙子八月一日更衣坐化寿六十二と記せり。碑式当時の制に協ひ、尤も信憑するに足れり、相伝へて之を以て開基の霊碑とせる由なれば、加治貞継は即当寺の開基にして其創建応永年間にあるを証すべし。更に一霊碑あり題して中典檀那駿洲大守心溪安公神定門神儀とあり、背に時享徳乙亥源朝臣大石重仲齡四十七、正月廿五日逝去畢と讖せり。其制亦前碑に同し、大石重仲は上杉憲実の重臣にして長尾氏と此肩せし人也。其当寺を中興せしは何故なるを詳にせずと雖、或は此地を領せるを以てか、且其堂宇たる柱橡劉らず結構甚だ奇古也、恐らくは近世のものにあらじ。
境内一古碑あり文永四知十月の文字あり、其西偏に当りて貞継の庵趾あり。又馬場と唱ふる処もあり。且寺の西境に接する守田氏の周回には近年まで空濠の跡を存したりしが、今は墾して水田となせしと云、されば此辺は加治氏の領地にして、当寺は其氏寺なりしこと疑ふべからず。而して一帯の青○(食偏に章)は屏を列ねたるが如く、之を背後に抱擁し、之に登れば四顧空濶にして、富嶽を雲際に望むといへり。乃ち地形の上より之を見るも、亦館址たるを知るべし。