霞ヶ関村
総説
現状
霞ヶ関村は川越町の西南約二里の処に位し、北は名細村、西は鶴島、高萩二村、南は柏原村に連り、東は入間川を隔てゝ、田面沢、大田、日東三村に対す。
中央に小畔川あり。
并に之と並行する一流もあり。
入間川及小畔川の沿岸低地にして、水田を見れども、其他は概して土地徐々に高く、陸田及森林也。
地質も入間川畔砂質壤土なる外、其他は軽粘質壤土也。
村の西南林中に能登池と云ふあり。
稍々大也。
周囲樹木蒼鬱として、境致深閑たり。
川越高麗街道は村の中央を走り、馬車の往復あり。
元は北方を走りしも、近頃南路を以て県道とせり。
的場、笠幡、安比奈新田の三大字より成り、人口三千五百十一、戸数五百七十二、織物、薪、炭等の産あり。
沿革
霞ヶ関の地方古墳少からず、而して的場に於て其稍々大なるものゝ存す
るを見る。
之を以て土人三芳野塚、初雁塚、牛塚等の名あり。
的場なる名称と其天神社と併せて、三芳野の旧地にして、川越の本地なりとの説あるは川越町の条に述べたり。
笠幡には近時、其西山に於て土塁の跡を発見し、其伝説に考へ、其所持の状態に考へ、恐らく発智氏の旧居跡たりしが如く、発智氏の此地に来れる或は比較的古代に属せしやも計られずと雖、要するに確乎たる判断を下し得べからず。
仮りに戦国の頃に於て信濃国より此地に来り、土地を開発せりとすべし。
小田原役帳によれば、山中内匠助川越的場六十八貫五百五十八文とあり。
又新堀村町田氏文書、延文年間足利氏より高麗彦四郎に与へし書に笠縁と見え、彦四郎知行の地たりしが、風土記は笠縁を以て笠幡の旧称ならんと称す。
或は然るやも計られず。
然れども加治村に笠縫あり。
文字の形式上之を以て更に酷似せりとさゞる能はず。
続て風土記の載する所によれば、村は長禄元年より太田道灌所領、後上杉管領家、大導寺政繁、北条安房守領地せりとあり。
恐らく川越城守城将の変遷に伴ひて此説を為したものらん、此村に限りて斯く言へるは別に拠あるにや。
蓋し覚束なかるべし。
役帳には谷上某十貫文笠幡の内知行の事見えたり。
安比奈新田に至ては正保元禄の交に開墾せられたり。
安比奈新田は曽て支配地たりしとありしが如しと雖、余は全村凡て川越領にして、幕末の頃は前橋領となり、明治二年前橋藩、四年前橋県、人間県(四大区二小区)となり、六年熊ヶ谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄(高麗郡)、十七年笠幡村外三村連合、二十二年恐らくは依然柏原村を併せて一村を成し、霞ヶ関趾に因て霞ヶ関村と名けしに、後柏原村は一村に独立したるものなるべし。
二十九年入間郡に入る。
的場は村の東部に当り、東西二十町、南北三十町に達する大村にして、人家二百三四十戸、伝へ言ふ。
大導寺駿河守、隣里上戸の城にありし時、此辺に弓銃の的場ありしと、的塚と称するもの曽て存せしと云へり。
即ち古は三芳野の里にして、小名に三芳野と云へる所あり、又三芳野塚あり。
其他初雁池は田となり。
蟹淵も田となり。
的塚の塚上には御岳山を祭る。
三芳野塚は最も大にして、瓢形古墳也。
初雁塚に浅間神社を祭る。
今は塚形も変化せり。
牛塚も瓢塚なり。
其他数十年前までは旗塚以下大凡三十許の塚あり、此辺石土器畑中に川づること多し。
村の中央にあり。
村社也。
村の南方にあり。
村の北方にあり、的場山と号し、曹洞宗鯨井村長福寺末也。
此寺往古三芳野塚の傍にありて、三芳野山宝常寺と称へしが、何時の頃よりか山号を改め、寺号を書替たりと云ふ。
開山年代不明、中興は正保の頃にあり。
寺の開基は村の旧家神山氏にや。
寺に三芳野天神縁起を蔵す。
安比奈新田は村の南部にあり。
東西十五町、南北十町、戸数五六十、正保元禄の間に開墾せらる。
伝によれば、此村元柏原的場両村の城地に攝せられ、中間の小地なれば、アヒナ新田と唱へしとかや。
其後今の文字を適用す。
笠幡は村の中央より西部に亘り、東西一里、南北廿六七町、戸数二百七八十。
古社なれど勧請年暦不明、棟札の文字読むべからず。
但社号に大日本国高麗笠幡大明神と記し、又一の棟札には慶長十二年修理を記し、又一棟札に寛永十三年十二月笠幡郷惣社大明神とあり、同十五年の棟札には笠幡郷惣社尾畸大明神とあり。
其他寛文九年十二月再興元禄二年修理の棟札あり。
之れ現今の社殿也。
尚古来円経六寸表に仏体を凸出せる鋳板に天文二十年鋳造と記せる掛物二面あり。
猿田彦大神を祭る。
勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札
あり。
又延宝五年三月二日造立の棟札あり。
元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。
古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。
依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。
今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。
村社也。
勧請年月不明なれども、万治二年正月造営の棟札あり、其外は紛失せり。
安政二年正月十五日改造す。
古老の伝によれば、享禄の頃は現社地の西南二十間許の地に南面して社殿あり。
其跡今も歴然たりと云ふ。
又其頃神前にかゝれる鰐口に永享三年とあり、又社辺に天文七年と記せる日待供養塔の古碑ありしと云ふ。
倉ヶ屋戸口にあり。
仙波中院末、後村上天皇の御宇曹洞宗元二遍公和尚(貞治五年入寂)の創立にして、興学寺と号せり。
後慶長年間宗賢法印天台宗に改めたれば、之を中興開祖とす。
開祖元二の古塔今も存す。
天海は宗賢と法縁あるに由て、直筆の由緒書及延命寺の称号下附ありしが、明和の火災に凡て失へり。
寺は境内幽邃、泉石の趣あり、寺堂も亦整へり。
延命寺に接して、其西方鬱蒼たる森林あり。
延命寺は元其一部にありしと伝へらる。
林叢を分けて、中に進めば土居の跡或は明に、或は隠かに、即ち其東部は寺跡と覚しく、西部は館跡と覚し。
邸鎮守の如き小なる神社もあり、依て少しく何人の住せし所なるやを吟味せしに、寺僧の甚だおぼろなる伝に西山は西山将監の居地なりとの説もあれど、発智氏の祖発智太郎の居地と云ふもありと。
之を発智氏に就て尋ぬれば、西山は祖先以来何故にや甚だ重要なる土地と云ひ伝へられ、猥りに手を附けざる慣習なり。
と。
其系図には西山莊監の名も見えたり。
或は思ふ此地古西山氏住し、然る後に発智氏代りしか。
系図の最初の部分は未だ遽に信用する能はず。
然れども西山最後の居住者は発智氏なると、稍々明かなるが如く、数代若くは十数代以前、此処を去て今の処に移り、専ら帰農拓地の事に従へるものならん。
延命寺は恐らく西山氏などの開基にて、発智氏の如きも力を盡したるものならんか。