三芳野村

総説

現状

三芳野村は郡の北部に位し、西北は勝呂村、西南は鶴ヶ島村名細村東北は越辺川を隔てゝ比企郡中山村伊草村に相対す。 川越高阪街道は南部を通過せり。 川越町を去る一里半、坂戸町を去る亦同じ。

地勢東北の一半は低地にして、越辺川に沿ひて水田よく連れども、西南の一半は稍々高台に属し、森林陸田たり。 小畔川は東部の境界に僅にかゝり、越辺川に入る。 飯盛川は勝呂村より来り。 北部を流れて越辺川に注ぎ、名細村、広谷より来る一流は南部を流れて、小畔川に入る。 米麦豆の産あり。 小沼横沼青木紺屋中小坂の五大字に分れ、戸数四百八十五、人口二千八百七十。

沿革

三芳野村、西方に古墳多し。 古の鎌倉街道は青木小沼の北境字別所より、青木の中央を南に貫き、字前谷原より名細村下広谷に通ぜしものゝ如く、青木に宿と称する処の存するは当時の宿駅の名残也。 今は宿東、宿西と二に分てり。

青木は七党丹党の青木氏の居りし処なるべく、或は精明村の青木より分れて此地に出でたるにや。 其館跡とも認定すべきもの、青木の西北境別所に存し、今も土居の跡を。 後世此地に観音堂を設け、小沼東光寺勝呂村塚越西光寺の中問にありて、両寺の指揮する所なりしと云ふ。 鎌倉街道も此辺を通じ、館地たるに適せるが如し。

更に中小坂の西境に土俗呼で大穴と称する処、明に土塁の跡を存し、館跡なると一点の疑なしと雖、何人の居なりしや明ならず。 青木中小坂共に名細村下広谷に近く、下広谷に存する北部二三個所、南部二三個所の館跡と或は多少の関係なくんばあらざるべし。

江戸時代に至て此辺一帯川越領釆地支配地相交はり、幕末に至て全部川越領となる。 明治二年川越藩となり、四年川越県となり、次て入間県(五大区一小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県となり、十二年入間高麗郡役所に属し、十七年横沼外四村連合となり、二十二年三芳野村と称す。

小畔川及妖怪説話

小畔川は古、名細村平塚新田より西に向ふ事数町、屈曲して北に流れ越辺川に近づきて又東流し、入間川のカンスと称する処に落ちたり。 深淵長潭甚だ多くして、付近に池沼あり。 村民之を不便とするや久し、弘化四年松平大和守、奉行安井与左衛門に命じ、新に川を越辺川に落さしむ。

工成て土地開け、水利通じ、妖怪奇異の説も四散霧消せり。 先是、小畔川に関する怪話甚だ多かりき。 或は言ふ狐狸蛇龍棲息せりと。 大蛇は名を小次郎と称し、下小坂鎌取橋の辺に美人となりて屡々出でしと、或は言ふ、医師友隣なるもの此川に死せりと。 其顛末詳細也。 或は言ふ洪水の前必ず河鳴ありと。 或は言ふ龍燈なるもの此辺にあらはれ、秋期に多く、増水せる時殊に然り、流に沿ひて或は高く。 或は近く或は遠く、小なるものは螢火の如く、大なるものは徑二三尺にも及びなん。 其色茶白にして、鱗光の如く、忽にして滅す。 と。 今は絶えて此事なしと雖、八十二才の古老確に之を実見せるあり。 思ふに武蔵野話が記せる砂村の怪火も之と同じきが如く。 福島県平町付近には今も龍燈の奇異存するあり。 自然界の作用、必ずや此事ありしならん。

中小坂

中小坂は村の南部にあり。 川越高坂街道の北に沿ひ、戸数五六十。 其原と称する処は元禄の頃十七戸今は少しく増加せり。

神明神社

古記なけれど、村人は弘安二年の勧請と云ふ。 村社也。 明治五年津島神社を合し、四十年五月白山神社、稲荷神社、愛宕神社、浅間神社を合し、四十三年今の社殿を建てたり。 其愛宕神社は中戸にありて瓢形古墳と覚しきものゝ上にあり。 依て合祀後発掘せしに石棺あり、中に刀劔甲胄等を存せしと云ふ。

慈眼寺

中戸にあり。 由城山福聚院坂坊と云ふ。 古は幽城山とも記せしとかや。 中興開山可説、二世俊良、俊良明暦二年寂す。 大智寺末、

大穴

西境にあり。 街道の北に位し、雑木林の間、高さは一丈、低きも六七尺許の土手矩形に連りたり。

紺屋

紺屋は中小坂の北に位す。 戸数百余、古は高屋若くは高谷と記せしが如し。 西方に当りて旧川越領主酒井氏の菩提寺源昌寺の蹟あり。 天神社其他の屋敷跡もあり。 依て或は古下広谷村と一村ならざりしや。 広谷と高谷と音相通ずと云ふものあり。

白髭神社

宮東にあり。 村社也、末社に八坂、疱瘡、天神の三社あり、近年左の諸社を合す。

稲荷神社(松原にあり。讃岐稲荷と称す(酒井讃岐守が勧請なるによる。) 愛宕、浅間の二社、天神社(天神窪にあり)。 神明神社(神明にありしが後長福寺内にあり。)

長福寺

無野にあり。 三宝山宝蔵院と号す。 大智寺末弘化年中火災にかゝれり。

源昌寺跡

景台にあり。 三芳野名勝図絵樹木屋敷の条によれば慶長十三年川越城主酒井河内守上州廐橋へ移封の時、此にありし菩提寺龍海院を廐橋へ移し、其後御舎弟備後守城主の時、曹洞宗南陽山源昌寺を此に移し、御息讃岐守寛永十一年小浜に移封の時、寺は紺屋村へ引たり。 紺尾は元の如く讃岐守の領地たるによるなり。 云々とあれど、風土記紺屋村の条によれば、小浜国替の後此辺は酒井大学、同壱岐守、同兵郎等の采地たりしが如し。 又風士記及里伝には、「元領守酒井讃岐守忠勝の祖雅楽頭正親の法謚を源昌院殿と云ひ、正親の子河内守重忠父の菩提のため一寺を立つ忠勝に至り、寛永年中若州へ所替の中寺は近江国栗太郎浮気村へうつして今に彼地にありと、其寺記によれば当所旧跡に法剣権現正八幡白山等の社を残し、雅楽頭忠世が寄附せし鰐口をかくと云ふ。 されど今は其社も廃せられ其跡を止めず。 一説に源昌、隆昌、道光庵の三寺ありて今も其跡歴々として其他門前跡、寺やしか、墓地等残れり。 」とありて、酒井重忠の設立とし、又重忠川越城主にして直に偏卑なる紺屋に菩提寺を造替したる奇観を生ず。 要するに源昌寺は曽て存せり。 其跡も存す。 之に関する由緒は尚多少の研究を要すべし。

本明院

宮西にあり。 修験なりき。

横沼

横沼は殆ど村の中央に位す。 戸数一百或は曰く。 横沼は小沼より分れたり。

其意即ち余小沼なりと。 附会也。

白髭神社

登戸方にあり。 弘治二年の勧請なりと称す。 村社也。 社内に八幡大神と氷川大神を祭れり。 末社に八坂疱瘡の両社あり。 近年稲荷社神(北登戸)、浅間神社(前原方)駒形八幡社(駒形)天神社(登戸)八坂社(北方)を合せり。

勝光寺

登戸にあり。 藤井山霊泉院と称し、東叡山末、後中院に属す。 開山宝本文亀元年寂す。 寺は昔塚越にありしを何れの頃にや此地に移せり。 塚越に其跡あり。 中興開山祐長。 宝暦年間類焼にかゝり、寺記の見るべきものなし。

西福寺

浄土宗、川越蓮馨寺末。 今は廃寺。

忠栄寺

登戸方にあり。 山号を伝へされど口碑によれば薩垂山錫杖院忠栄寺と云ふとぞ。 伊草金乗院末、至徳二年僧衆十二人在家十二人、長禄三子十月廿五日妙金禅門、応永二年の碑あり。

薬師堂

北谷にあり。 北谷山瑠璃光院と云ふ。 大智寺末、堂、小高き処に古碑あれど読むべからず。

釈迦堂

宮脇にあり。 元西福寺持堂なりしが、同時の頃か個人持となれり。 古は八間四面の大堂にて、境内も五段ありしと。 堂後小高き処より骨片土器を出す。 横沼の釈迦堂と名高し。

阿弥陀堂

登戸方にあり。 寛政年間勝光寺より分れ此処に立つ。

地蔵堂

原方にあり。 北向地蔵と云ひ、東向にする時は行人に崇ると云ふ。

地獄堂

同北方。 元禄十五年間仁田市郎兵衛開き。 侠客間仁田寅吉の墓あり。

大蔵院

登戸方にあり。 深草山と号す。 古は勝蔵院と記す。 大門道とて二間半幅、長さ百間の大道あり。 西に向つて大門あり。 天保の頃根本山を勧請し、庭内に梅樹を樹え信徒群集す。

小沼

小沼は村の北部にして、戸数百五十。 古墳少からず。 堀内と称する処あり。 村の草創小沼十八軒と称す。

氷川神社

堀内にあり。 村社也。 末社に神明稲荷琴平の諸社あり。 正徳五年正一位を授かりたる文書あり。 近年左の諸社を合す。

八坂神社

田島にあり。

熊野神社

熊野にあり。 大樹あり。 社地は古墳也。

八幡神社

越辺川辺にあり。 古は村の鎮守にして、村民も十八戸ばかり此辺に住せしが、洪水の為め今の地に移れり。

梶棒権現

梶棒にあり。 社に関して奇怪なる伝説あり。

大六天神

大道路にあり。 旧家(徳川以前の住とす)松本氏の氏神也。 社側に檜の大木あり、同回三丈余、天に冲す。 北足立郡中仙道より望ひべし。 嘉永年間江戸商人に売る。 当時にありて尚価数百金なりと云ふ。

木曽八幡

木曽にあり、義仲の臣清水冠者に従て鎌倉を落ら、入間川にて、冠者討死の後、此処に来て住し義仲及冠者を祭れりと云ふ。

諏訪社

附島にあり。

天神社

新井にあり。 口碑によれば天文の頃の創立ならんと。

東光寺

西北方後谷にあり。 薬王山浄小院と号す。 大智寺末、元暦、正和、文保、貞和、永徳、正長、文明等の板碑ありと云ふ。 寺の前方、古墳あり。 俚俗雷電山と云ふ処也。 瓢の如し、北方に高く、南に低し、高さ二丈ばかり、周囲百間、上に雷電社あり。 近傍に類似の小高き処数ヶ所ありと。 今は崩れて畑となる、全形を止めず。 先年鈴木某此墳の辺より埴輪と思しき立像二尺ばかりのものを、堀出したるとありと。

又一説に鎌倉時代、当郷付近鎌倉街道を狭て東光寺、西光寺とて二寺あり。 青木氏の寺にして、正治二年青木氏滅亡の後、護持仏薬師如来を西光寺に日光月光十二神を東光寺にうつすと。 庭前に浄水地あるによりて薬王山浄水院と号し、元弘三年新田義貞休息、薬師光を東西にはなつ、故に東光西光と云ふ。 古碑あり、法印弘栄建久五年八月寂とあり。 建久は青木氏亡滅の六年前なれば、亡滅前已に同氏の菩提寺なると疑なし。 故に承安年間の創立なりと口伝す。 義貞休息の説妄也。 青木氏亡滅の説拠あるにや。 弘治二年法印賢如住し之を中興とす。 後寛永年中隆円住し又中興となる。

法音寺

寺脇にあり。 悳日山と号す。 大智寺末。 寺の後方西に当り、午塚とて高一丈、周囲十間許り。 四十四年堀りしも何物もなし。 此寺享和中焼失し什器古記を失ひ、唯楼門を存す。 梵鐘元禄五年の銘ありと。 考証とならず。 寺内に伏見稲荷あり、文化十年創立、観音堂あり、其後方に小川氏累代の墓碑あり。 小川氏は旧家にして、元甲斐の宿将馬場美濃守の後なりと。 碑あり、慶長の年号あり。 馬場氏何時よりか小川と改むと云ふ。

少林寺

島崎にあり。 鳳雲山聖諦院と号す。 曹洞宗。 永源寺末。 観音堂あり。 堂中に白山稲荷社を合社す。 永禄二年道斉宗現沙弥の開創にして、沙弥元亀三年七月十五日寂、此人小島氏と云ひ、村の農民なりき、今は其家絶ゆ。 六代徳高中興並法流開山たり。

宝蔵寺蹟

堀之内にあり。 氷川山宝楽院と号す。 大智寺末。 法音寺三世栄海、氷川社祈願の為、此に隠居し寺とす、故に檀徒なく、墓なし。 明治の初、廃寺となる。 今は建物のみを存す。

青木

青木は村の西部に位す。 戸数七八十。 丹党青木の住せし処ならんと云ふ。 旧鎌倉街道の通路にして、宿、馬乗塚、堀内等の小名ありき。

八幡神社

宮町にあり。 社に神鏡あり。 裏に網代綾部藤原諤諤並田中和泉守藤原光政とほる。 社は里俗雀の宮と云ひ、元鎮めの宮なりしを土人誤りしなりと。 元領主青木氏の鎮守にして、神鏡の彫刻にいはゆる網代田中の両氏は青木氏に属する武人にて、其族今尚当所に残れりと云ふものあり。 近年白髭神社を合せり。 社は堀内にありき。

宝珠寺

宿西にあり。 愛宕山正護院と号す。 大智寺末。 古は法勝寺と記し、 元高麗郡下広谷より移したり下広谷にては隆勝寺とも云ひ、 該地には隆勝寺原の名と地蔵二三像を残せり。 門古風なり。 隆勝門と云ひ、九柱六足の門なり。 但明治二十五年焼失す。 明和年間法流開山慧弁あり。 寛政二年寂せり。

館跡

別所と称する処にあり。 鎌倉街道の傍に位し、西北に小土手を廻らし、甲胄刀鎗の類を出せしとありと云ふ。 後世此地に薬師堂を設けしが、今は廃せられ、像は塚越西光寺に移せり。