山根神社
村の東端に稍々正円形に近き小丘あり。丘上に山根神社あり。誉田別尊を祭り、元八幡神社と称したりしが、明治四十年宿谷及権現堂に存せし村社熊野、三島、白山、の三社及無格社十を合祀して山根神社と改む。境内高燥にして、社殿典雅也。
大谷木は阿諏訪の南に隣り、大谷木川に沿へる渓谷にして、戸数七十余。村役場あり。
村の東端に稍々正円形に近き小丘あり。丘上に山根神社あり。誉田別尊を祭り、元八幡神社と称したりしが、明治四十年宿谷及権現堂に存せし村社熊野、三島、白山、の三社及無格社十を合祀して山根神社と改む。境内高燥にして、社殿典雅也。
山根神社の西に宝福寺あり。丘の中腹に位し丘上に墓地を設く、板碑あり。永徳二年壬戌九月二十八日妙空禅門、応仁二年戌子逆修妙光禅尼と記せり。此応仁の板碑には梵字四列に相並びて恰も経文を刻せしに似たり。寺は越生法恩寺に属し沢谷山光助院と称す、今見るに足らず創立の時代も不詳也。
大谷木の南部宿谷に近き処を沢と名く。観音堂及浄覚院の跡あり。観音堂は大永の頃長福寺と称し、天文年中焼失して廃寺となりしを寛文の頃浄覚院之を再興せりと請ふ。浄覚院は本山派修験にして、川角村西戸山本坊の配下也。其家尚存し、堂牆の跡推究すべし。
大谷木に大谷木を氏とするもの七戸あり。西方の三戸は一系を成し、毛呂氏の系なりと云ふ。其正系を詳にせずと雖、大谷木季利氏の家有力にして古しと云ふ。其居地を屋敷と称し、其東方に元屋敷と称する処あり。曽て邸第あり又寺堂ありしと云ふ。屋敷の西方に五輪塔三基あり。大谷木氏祖先の墓とも覚ゆれども、古風の二基は読むべからず。又元屋敷に近き神明宮及箱根神社の傍に「毛呂季光之碑」あり。何れも季利大谷木氏の所有也。
風土記によれば、村の西南松林中に五輪塔あり。大和入道法円帰迎禅門詰衆十六人、延文五年十一月二十日敬白と記されたりと云ふ。土人に就て問ふに此塔末だ存するものの如し。