住吉四所神社
村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。
葛貫は村の東南に位し、飯能越生街道に沿ひて人家あり。戸数八九十
村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。
住吉社の西、薬王寺の北、土居の跡を存する処あり。土地高く、水田を後にし、陸田を前にし、中央と覚しき処、長松あり。是れ宿谷氏の居跡にして、近傍に馬場の跡と称する処あり。宿谷氏は即ち宿谷村を開きし宿谷氏の本宗と称せられ、寺堂の如き大厦明治の初まで存せしも、今は荒廃人をして徒らに麦秀の嘆あらしむ。
村の北方毛呂村の境に一大板碑あり長一丈余幅二尺五寸。嘉元四季二月三日時正敬白と記す。細字を刻したれど、読むベからず。風土記によれば、大谷木宝福寺は古此辺にありしならんと称せり。果して然るや否やを知らず。
葛貫の南方を称して大寺と云ふ。今も称せり。風土記によれば別に下大寺と称するもあり。土人の説によれば其辺礎石尚存するありと云ひ、或は近年に至て除去せりと云ふ。蓋し古、大伽藍の存せし処にや。(此辺に延文五年と記せる小板碑あり。又大寺の鐘堂は、高麗川村平沢に置かれしものならんと云ふものあり。