淳和天皇天長七年、慈覚大師、勅命を奉じて、伽藍を小仙波の地に経営し、無量寿寺の号を賜はり、堂後に石刻の一切経を癧め、一小丘を築き、上に二層の塔を造り、(此処を経山と云ふ)左に山王を祀る。 右に白山社を置き、其傍に法華三昧堂を建立し、以て鎮護の道場とせりと云ふ。 其後元久元年兵火にかゝり、寺宇廃すると九十余年、伏見天皇永仁四年に至り、尊海僧正勅を奉じて之を再営す。 正安三年二月東国天台の本山たるべきの勅書あり。 後奈良天皇星野山の震翰を賜ふ。 天文六年の合戦に再び兵火の犯す所となり、為に微々として僅に其燈を掲ぐるのみにして天海僧正に至れりと云ふ。 之を喜多院創設及再興の伝説となす。
恰も此頃、仙波氏あり。 武蔵七党村山党の一派にして、鎌倉時代に其名あらはれたり。 大仙波の条参照すべし。 小仙波大仙波の別は甚だ古く行はれたるものにあらず。