地物名勝及旧跡

鐘楼

多賀町にありて、 川越町の一名物なり。 承応年中松平伊豆守の再造にして、万治四年田二反を寄附せられ、以て永続に堪えしむ。 古は楼下に鐘楼屋敷ありき。 現今の楼は明治二十六年回禄の後に設けし処にして、構造旧に比して壮大且堅固也。

札の辻

本町高沢北町南町の十字街にして、高札場たり。 古は御判塚ともいひ、川越町の中心たりし也。 天文十五年川越夜戦の時、合戦あり。 呼びて札辻合戦と称す。

夜奈川及多能武沢

川越城趾の南方、 水田の中にあり。 夜奈川の名に付ては何によるかを知らず俗説あれども、採るに足らず。 多能武沢は其北に位し、萱葮の生せる沃地にして、水の涌出する処七処あり。 依て之を七ッ釜と称す、 川越城の為に一要害たりし也。

赤間川及蛍

赤間川は入間川町に於て入間川より分れ、奥富日東、大田、田面沢の四村を経て、 川越町に入る。 川の築造は松平伊豆守の時なりと云ふ。 川の付近古は螢の名所にして、其形甚だ大なるものを産し、或は数千百の螢、群をなし、一塊の巨火となりて空中に飛ぶが如く、或は散じて四方に消え、壮観を極めしこともありしと云ふ。 幕末の頃以来毎年川さらひと云ふことありて、腐草少く、従て螢も殆ど見えざるに至らんとす。 川の東崖、見立寺あり。 親塚稲荷あり。 風景不可ならず。

東明寺富士山

東明寺々院の傍にあり。 此辺は川越夜戦の折に、追撃戦の行はれたる処にや、頗る激闘の行はれたるが如く、上杉方の豪将難波田弾正憲重等も戦死せりと云ふ。 今も此辺往々にして、刀鎗鎧片等を出すことありと云ふ。 山は元戦死者を葬りし塚に起因し、之を大にし、若くは之を移転して大にしたるものなるベし。 高三丈余。 付近を望むベし。

杉下

川越城内東方にして、初雁杉の下にありしを以て名く、松平信綱、外廓増大の事あるに及て、更に東に遷されて、今の処に居る。

唐人小路

改と云ふ。 江戸町の内にして、 貢米を改めし処也、唐人小路の名は小田原時代に生ぜしものにして、蓋し、支那人の来住せし小田原麾下の城下として、自然川越にも唐人来りしか、若くは、小田原の唐人小路なる名称の移転せしならん。 今は伝はらず。

丸馬場

古は馬場也。 秋元但馬の頃は泰安寺と云ふ寺ありき。

代官町

喜多町志多町との中間にして、天正十九年より慶安の頃まで、代官大河内金兵衛の住せし処なりと云ふ。

鍋屋敷

代官町に連り、元広小路也。 其前は即鍋師矢沢氏が川口町より来て、業を始めし処、矢沢氏此より野田に移り、後神明町に居る。

御花畠

志義町南側の裏にして、蓮馨寺境内に沿へり。 中古花園ありしも、今は市街地となる。 御花畠の名称も既に消えんとす。

鉦打町

古遊行派の道心、本阿弥陀仏と云ふもの同学二三人と共に住せし処なるを以て名く。

光顕寺跡

通町にあり。 松平大和守の善提寺にして、松平家厩橋移転の時、寺も亦全部移転し去れり。

イケス屋敷

蔵町南側と云へど其処を詳にせず。

御樹木屋敷

宮下町の東部にて旧城内に至る道路の方に寄れり。 今も近辺の人呼びて「御樹木」と云ふ。 天正十九年酒井重忠、菩提寺龍海院を移し、慶長十四年酒井忠利、源昌寺を移し、其子忠勝小浜へ移るに及て、之を三芳野村紺屋に移す。 (紺屋に源昌寺跡あり。 其伝説は稍之と異る)。 依て寺跡に果樹等を植ゆ。

唯心庵

坂下町にあり。 赤間川に臨みたり。 元松平美濃守藩中山東小市郎の別業にして赤間川を入れ、築山等を構え、家作に数寄を凝らせしが、美濃守甲府に移るに及び、山東も此処を去り、邸地荒廃せり。 其の後唯心と称する僧住したるを以て、唯心庵と名け、世俗「イホリ」と呼ぶ。 唯心の後此処は下町紀伊国屋某住し、次で喜多町水村氏に帰し、今は喜多氏の住居たり。

荻生徂徠寓居跡

宮下町にして、今の裁判所付近にや、徂徠は松平美濃守に仕へ、美濃守川越城主たりし頃、江戸より来て暫時此処に寓せしものならん。

五反屋敷

境町の内也。 寛永の頃松平伊豆守藩士遊佐氏の屋敷なりき。

六反屋敷

御茶屋跡

鷹部屋の西、赤間川に臨む。 秋元但馬守の別業なりき。

御鷹部屋

即今の鷹部屋の地にして、昔は御鷹見、田中助作の預り、鷹も十四五羽居りしが、元禄中殺生禁断の令によりて、廃跡となる、

犬小屋

坂上町にあり、五代将軍綱吉の時設けらる。

厩下

杉原町の内也。 元は厩を養寿院境内に設けしが、寛永中杉原に移せる也。

御荼の水

清水町東側に冷泉あり。 今は沢田工場也。 家康放鷹の時、此井の水を荼水に用ゐたりきと云ふ。

松井屋敷

西町西裏にあり、松平伊豆守家老松井五郎右衛門の別業にして頗る宏壮なる構なりしが、後高沢町水村氏の有となり、今は廃れて畑たり。

篠田

石原町の内にあり。 其西方ならん。 篠田三郎行家なるもの住せし処なりと云ふ。

雀森八幡社跡

石原町の西端より北一町の処にありて、今は僅かばかりの土地なり。 河越記に曰く、城より西に一の社壇あり。 むぐらが中に埋れけり。 社頭は偏に塵に交り、和光同塵の結縁もあまりふるべき有様なり。 人に問へばこれも宇佐八幡宮を此処に勧請せし宗廟なり。 此森昔は大社にてありしが、兵乱に廃れ、世治りては田圃のために宜しからずとて、何頃にや社を向小久保へ引きたり。

切支丹屋敷

中原町にあり、松平伊豆守が天草陣の捕虜を押込め置きし処なりと云ふ。

焔硝蔵

西町の西方にありしが、後仙波村新宿へ移せり。

其他尚頗る多きも、余りに些細に亘るを以て之を略す。