愛宕社と同じく富士の腰にありて、略ぼ同型の塚上に社殿を設く。 古老の伝説には康平の昔源頼義の勧請と称すれども信ずるに足らず。 又太田道灌長禄二年再営し、永禄九年小田原麾下中山角四郎左衛門再興し、永銭十貫文を寄進せしと称す。 道灌説は勿論長禄元年道灌河越築城説より想出したる憶説のみ。 永禄九年説の如きは未だ確証をきかずと雖、比較的無難のものならん。 其後松平伊豆守供米を寄逞し、額二面を奉納す。 文政八年二月偶々火あり、遂に古記録等一切を失へりと云ふ。 維新前は中院の持にして、川越町の住民は毎年七月十四日早曉「初山」と称し、此社に詣するの風近年までも行はれしが、数年前より川越城趾御岳社の後方に浅間社を勧請したれば、今は若干は其方へ赴くに至れり。