天台宗也。 里伝に曰く、淳和天皇天長年中、慈覚大師、東国に来り、此地に於て潅頂修業し、此寺を立て其開山となり傍に八幡祠を立つ。 其後貞観年中、潅頂道場全く備はれり。 之を実聚山灌頂院東漸寺と号す。 其後天慶二年平将門の乱に寺領逆賊に奪はれ、堂閣破壊せられ、僅に十一を千百に存するのみとなれり、元暦四年頼朝堂宇坊舍を再興し、寺領を復す、弘安元年藤原時景再営し、天文年間川越の戦に焼失し、天正十九年徳川家康放鷹して此寺に懇ふ。 其後天保の火災を経、堂宇を再営せり。 徳川時代大広間独礼を許されし当時も維新後八幡社領は上地となり、神仏混淆は禁ぜられ、聊か振はざるものあり。
六年南古谷村木野目吉祥院を合寺し、其後宗制寺法新に成り、今の寺格となると。 此説も前半稍断定に苦しむ。 然れども其創立の古きは之を信ずるに足る。 寺堂雄大、寺域亦頗る広闊也。 其中央の山門は丹青、構造、周閘に合せず。 甚だ眼を惹く。 即ち是れ旧八幡神社の鐘楼たりしものなりと云ふ。 寺に徳川時代、末寺に関する文書多し。
灌頂院は八幡社の東にあり。 然れども其末寺塔頭は八幡神社の西方に存せしものゝ如く、宝塔院と云ひ、盤若院と云ひ、神宮寺と云ひ、観音院と云ひ、大蔵院と云ひ、本行院と云ひ、或は全く廃滅し、或は廃庵、堂跡を存す。 尚此辺、古墳と覚しきもの若干見え、板碑も比較的多し。