南畑村

総説

現状

南畑(なんばた)村は郡の東南部に位し、川越町を去ると約三里、大井村を去る一里半。 東は荒川を以て、北足立郡に境し、西は新河岸川を以て福岡鶴瀬水谷三村に境し(但鶴瀬との境には村地稍河西に突出せり)北は南古谷村、 南は宗岡村に連る。 其地域狭長、両河東西より圧するの趣あり。

地勢平坦にして、水田甚だ多し。 堀割二三条其間を走り、水門樋管の設多し。

川越志木街道は村内を縦貫し、別に南畑所沢街道、南畑大宮街道は此地より起て東北と西南とに向ふ。 川越へ遠く、所沢へ遠く、却て北足立郡志木町に近く、浦和へ出づるの便比較的大也。

土質は壌土にして頗る肥沃なり。 米の産出を大宗とす。 麦之に次ぐ。 水害の恐 大なるを以て、其堤防工事は世に著明也。 戸数五百六十三、人口三千四百四十六、 東大久保下南畑南畑新田の四大字より成る。

沿革

南畑村は元難波田と書し、又難畑に作る。 偶々荒川、新河岸川水害を与ふると頻々、為に改めて南畑となせりと云ふ。 其土人が官許を得たりしは安永元年なりしとかや。

鎌倉時代のはじめ、七党村山党の金子家範の子高範、難波田氏を称せしと見ゆれば、その頃より或は此処に住せしならん。 難波田氏代々相嗣ぎ、土地の豪族たりしと覚しく、応永中の文書に

寄進 鶴岡八幡宮寺

武蔵国入東郡内難波田小三郎入道諸事

右同国六郷保内原郷替所寄進之状如件

応永七年十二月廿日左馬頭源朝臣満兼判

武識国入東郡内難波田小三郎入道諸事早荏彼所任御寄進之旨可致沙汰付下地

於鶴岡八幡宮雑掌之状依仰執達如件

応永七年十二月廿日上杉右衛門佐氏憲(法名禅秀)沙弥判

兵庫助入道殿

武蔵国入東郡内難波田小三郎入道諸事任去年御施行之旨荏彼所沙汰付下地於

鶴岡八幡宮雑掌候畢仍波状如件

応永八年二月廿九日上杉中務少輔朝宗(法名禅助)沙弥判

(右文書三通風土記に従ふ)

とあり。 難波田氏は鎌倉管領に事へ、次で両上杉氏勢力を占むるに及び、扇谷に臣事し、天文の頃弾正憲重あり。 松山城主となり。 川越夜戦に死せり。

両上杉氏倒れて後北条氏の世となるや、此辺は上田左近の知行地となりしが如く、役帳に「上田左近百五十貫文入東難波田乙卯検地」と見ゆ。 天正十八年江戸時代の序幕開かるゝや、東天久保は終始川越領となり、上下及新田南畑は始め川越に属し、宝永以後支配地となる。 支配地は明治元年知県事、二年品川県、韮山県に属し、川越領は二年川越藩、四年川越県となり、合して入間県(二大区四小区、大久保は二小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に隷し、十七年上南畑連合、二十二年南畑村を組織せり。

土地及水流

南畑村地方は往古海底と覚しく、郡史の始まる頃に当ても、或は水沢の地ならざりしか。 今の荒川は決して古来の水道にあらず。 思ふに入間川の如きは村の随所を流れたりしものならん。 難波田村の沿革は或意味に於て堤防並排水の沿革ならずんばあらず。 然も上古は茫たり。 中古は漠たり。 近古に至て稍明なり。

伝へ言ふ。 新河岸川は数多の悪水を合せて、蛇木河岸に至り、潮く大となり其末荒川に合す。 古は水浅くして泥濘甚しく、沿岸には葮葦等繁茂し、水中には萍藻を生じ、雨あれば忽ち流水停滞して出水の害頻々たり。 加之荒川(当時は入間川)も豪雨に従て出水し、村民常に水難に苦しみしかば。 文明三年築堤の事起り、漸次之を延長して、土人始て堵に安ずるを得たりと。 其説く所二三吟味を要すと雖、当時の実状殆ど斯の如かりしならん。

元文の頃に至ては新河岸川の発達著しく、舟楫の便大に開け、沿岸諸所に廻漕店を設くるものあり。 かくて人口増加し、土地開発せられ、交通便利を加へて、村落の発達漸く全し。

東大久保

東大久保は村の北部を占め、人家二百弱、古は大窪村と書せしと云ふ。 大沢姓甚だ多し。

阿蘇明神社

村の鎮守にして、志木街道の西に位し、木立繁き処、清素なる社殿を設く、近年村内無格社八坂、厳島、砂原稲荷、氷川、神明、天神及稲荷の諸社を合祀せり。 境内に神楽殿あり、稲荷天神、金刀比羅、御岳、子安、弁天等許多の末社あり。 境内の北に接して、小学分校あり。 其西北に当り、新河岸川の畔、元の氷川神社あり。 傍に別当長円寺ありしも今は社を併せ、寺は唯廃屋を存するのみ。

長谷寺

(ちょうこくじ)

村の北部、街道に沿ひ南面せり。 本堂稍。 大にして、村寺の体裁備れり。 曹洞宗に属し、渋井蓮光寺の末、臥龍山と号す、開山は物堂正逸、慶長年代の人也。

古城蹟?

風土記に曰く、「村の北川越往還の東側にあり、城跡とのみ伝へり。 」 何人の居城なりしや。 是に荒神の塚、天神の小祠ありと。 案ずるに長谷寺の東、道を隔てゝ古冢あり、塚上阿夫利神社と記せる石燈籠あり。 又小社の跡と覚しきもの存す。 此東に天神の小祠あり。 此辺恐くは古城蹟の跡と推定すべし。 但村人の記憶今や全く之を逸す。

上南畑

上南畑は東大久保の南に接し、村名は元難波田と記せしと既に述べたり。 下南畑と併せて一村なりしが、江戸時代の始、上下に分れたりと覚しく、正保の国図には既に上下難波田あり、又難波田新田もあり。 戸数百七八十。 東西十五町、南北七八町也。

上南畑神社

村の南部、新河岸川の堤防に接せり。 元水越神社と称す。 文明十八年創立の由緒ありと云ふ。 明治三十九年村内の明石明神社(村社)、氷川神社(同上)、蛇木神社(同上)、稲荷社五、愛宕社一、須賀神社一を合し、上南畑神社と称す。

金蔵院

上南畑神社の北に接し、閑静なる寺院也、新義真言宗京都報恩院末にして密樹山と号す。 慶長十五年の起立と伝へられ、中興開山を承秀と云ふ。 明暦二年寂せり。 鐘あり。 安永六年の製にして、第九世寛慶の銘文を刻す。 本堂の裏に大杉あり。

薬師堂

金蔵院の北にあり。

其他此村の寺院に東光寺、常円寺、地蔵院等あり、何れも金蔵院の門徒なりしが。 今は到底其跡を弁ずるに由なし。

下南畑

下南畑は上南畑の東南に接し、東西十一町余、南北二十余町、戸数二百余、鎌倉時代の古道と覚しきものは、水谷村水子より入て、宗岡村羽根倉の渡に出づ。

阿蘇明神社

字山形の氏神にして、村社也。 木立の間に小祠立てり。 風土記に曰く。 「当社勧請の年歴は伝へざれど、社内に古き棟札二枚を蔵む。 其一は最古色にて、阿蘇の二字のみ僅に見ゆ。 一は永正元甲子年七月別当万蔵院造営せし由載せたれば古社なると論なし」と。

八幡神社

字八幡脇にあり。 村社也。 鎮坐の年歴は難波田弾正居住の時鎮守とせし由を云ひ伝ふれど、天文り頃既に鎮坐ありしにや。 古風なる社殿也。

氷川神社

興禅寺の南に当り、堤上にあり。 村社也。 風土記によれば「神体は石剣の類にて、青石を以て作れり」と云ふ。 長一尺、幅広き所三寸五分ありと。

無格諸社

下南畑は未だ合祀の事行はれず。 故を以て小社甚だ多し。 稲荷(鶴新田)美福稲荷(山形)乗越稲荷(乗越)稲荷(町田)妙見(鶴新田)稲荷(葮曾)天神(木曾田)須賀(竹田(稲荷三(同)金錯稲荷(山形)天神(蓮田)八坂(木曾田)須賀(登戸)山神(血沼)等是也。

興禅寺

山形にあり。 村の西北にして、上南畑の金蔵院と相近し。 本堂大にして、古色深し。 門上長松天に磨し、門下明和六年鋳造の鐘を掲ぐ。 銘中謂へるあり。 曰く開山は隣峯蓮光寺南古谷村渋井にあり)初□之遠孫而昔日善知識也云々と。 古は光禅寺と書し、曹洞宗、蓮光寺末、川龍山と号し、開山明庵、寛永二年末寂せり。

蔵福寺

興禅寺の東南に当り、墓地あり。 堂あり。 凡て廃頽したれども、尚留守する老婆あり。 堂の東は直ちに阿蘇明神社也。 寺は興禅寺末、無量山と云ひ、開山然室、天和二年示寂也。

千手院

真言にして、上南畑金蔵院門徒、大日山と号す。 境内に宝徳の年号を刻せる古碑一基ありしと云ふ。

南畑城蹟

山場の東、馬場の南に当り、小名を城家(しろが)と云ふ。 志木街道より入ると一町許の処にあり。 修験十玉院の跡、今荒寥慘憺たり。 其城は何時の頃築きしやを知らずと雖、天文の頃上杉氏に仕へし難波田弾正憲重が居城なりしとは確実なるが如し。 憲重は後松山城々代となりしが、天文十五年河越夜軍に於て父子三人燈明寺口に戦死せり。 それより此辺凡て北条氏の分国として、上田周防守在城せしかど、天正十八年以来廃城となれり。 城趾の模様今訪ねるに由なきも、四方二町余、追手は南の方、宿畑と云へる辺にありしとかや。 昔は外廓あり、二重堀を有せしと云ふ。 又西の方一町許の処に幕末の頃まで、五輪の石碑及建武、永享、文安の年号を刻せる断碑三基を存せしとかや。 五輸は難波田氏の墓碑なりしか。

十玉院

城趾の本丸と覚しき所にあり。 今は住者なく、竹林繁り、薬草処を得て、夏時隔離病舎に代用せらると云ふ。 然るに此院、聖護院直末の修験にて、日本二十八先達の内武蔵国九ヶ寺の一也。 南城山八幡寺と号す。 起立の年代は詳ならざれど、古き修験にて、彼の廻国雑記に、笹井を立て武州大塚の十玉がもとにまかりけるに云々とあるは、恐く此寺大塚に存せしものと推定せらる。 其後十玉院は天正の頃、水谷村水子に居住し、次第に衰微せしを、同七年多摩郡清戸村の内芝山と云ふ処に移して再興したりしこと、北条氏照の文書に見えたり。 それより此処に移りし年代は詳ならざれど、十玉は難波田弾正の親族なりしを以て、廃城となれる後、願ふて芝山の地に替えたりと云ふ。 従て此寺、宝物多く、太刀、鞍、轡等憲重の遺物を初め、短刀三振、仏図一軸、文明、天正、文禄等の古文書数通を有し、惣門、中門、不動堂、経堂等厳として存し、天神祠の如きは三四の末社を従へて、此一隅にありし也、古今変遷の跡も亦急なる哉。 其他万蔵院、西蔵院の如きは今は唯小名として地名に残れるのみ。 然れども万蔵院は十玉院末にして、西廓山と号し、開祖は古尾谷筑後守の苗裔なりしと伝へられき。 筑後守は古尾谷近江太郎信秀法名古谷院安養無寂と云ひ、応永六年に卒せり。 又西蔵院も十玉院末にして東廓山と号し、開祖は中筑後守資信の嫡孫如直にして、資信没落の後其子蔵人資親、当院に世を遁れ、入道して行阿と被せしが、中氏の祭祀絶えたるを悲み、一子如道を修験とせりと云ふ。 資信は天正十年に卒したり。 但武蔵野話は資信を以て応永六年に死せりとし、寺内に正長、永仁文安等の諸板碑存せしとを記せり。

南畑新田

南畑新田は下南畑村の東に接し、境界相交叉せり.戸数六十余、慶安元年に検地を経たり。

慈光寺

村の北部、堤防の傍にあり。 真言宗にして、水子村大応寺門徒也。