砂新田
砂新田は村の北部にして仙波村岸と相隣りせり、川越を去ること一里、人家街道の両側に並びたり、天文の頃より、民居となれり。
其頃医師円西なるもの住せしこと古書に見えたれど、今は伝はらず、其小名に存せし筈り円西尻の称さへ、今は已に忘れられたり。
恰も其頃京都三宝院の富家に浄蓮坊法眼なるものあり、諸国を行脚し仙波に至り(仙波村の岸村なりともいふ)弘治元年の頃此地に来り住す。
此に於て遂に常蓮坊の名あり、今に至るまて砂新田の別名を常蓮坊と云ふ。
(土人の発音はジャウリンボウと聞ゆ)常蓮坊慶長六年二月十一日卒し、其子孫源八、名主を務めしが其の後慶安年中三上新右衛門と云ふもの砂村より来り、当所の名主となりしかば、砂新田と改めたりと云ふ。
但天文、弘治は相去る遠からず、故に円西坊と常蓮坊とは或は略ぼ同時代にして、円西新田、常蓮坊新田一時相並て存せしやも計られず。
然るに常蓮坊の名は遂に円西新田の称に勝ち今日に至るまで、尚一般に使用せらるゝ也。
天正十八年以来川越領となり維新の際に至る、今は戸数八十余。
村の南端、東京街道の西に当り、二丈許の塚上にあり。
石階あり、枯木あり、塚の周囲は雑木林也。
次兵衛即吉田氏、旧里正小峯氏に存する伝記によれば、江州の人、大阪方に与して戦功あり、後流浪して川越に来り、松平伊豆守信綱に仕へて、信任せられ、砂新田の地を給せらると。
蓋し其勇にして仁なる人格は村民の仰慕を深くし、身死して遂に塚を築き、社を設けらるゝに至りし也。
然るに伝説は此塚を解して頗る興味ある物語とせり。
其一を次兵衛榛名神社信仰の説となし、其一を次兵衛入寂の説となす。
要領左の如し。
次兵衛砂新田にあり。
之を久して子なし。
由て榛名神社に祈て一女子を得たり。
然れども此子神のもうし子なれば、六歳の頃去て神に帰せり。
此に於て次兵衛大に悲み、再び神に祈りしに僅に其姿を見るを得たり、三たび祈るに及で遂に龍となりてあらはれたりと此に於て次兵衛遂に此世を厭ひ、此地に穴を穿ち、中に入りて念仏すること七日にして定仏し、村民と予め約して塚を設けしむ。
村の中央に位し、宝永三年次兵衛が建つる所也。
天台宗にして、川越城内高松院末、次兵衛の像を置く。
然れども百年以来荒廃して、堂宇、住僧、本尊、皆之を失ふ。
今村の古老に問へど寺の存せしを知るものなし。
村の中央、長谷川氏の庭中にあり。
立派なる墓所なりと云ふ。
村の中央より少しく北に寄り、街道の東側にあり。
一丈余の塚上にあり。
村社にして、祠堂稍見るべく、本村の鎮守なり。
塚の中腹八坂及稲荷の二社あり。
此塚及此社共に由来定かならざれど、勿諭此村開けてより、神祠を塚上に勧請せるものならん。
村の中央より西に入ること、二丁、雑木林に囲まれ、供養塔、普門塔等立てり。