三芳村
総説
現状
三芳村は郡の東南隅にありて、川越町を去る西南三里、所沢町を去る、東北二里ばかりに位し、北は大井村、東は鶴瀬、水谷二村、南は北足立郡(大和田町)及柳瀬村、西は富岡、福原二村に連接せり。
川越東京街道、村の中央より稍々東部を縦貫し、南畑所沢街道、東西に走て、之と相交叉せり。
戸数四百三十四、人口三千百七十二、藤久保、竹間沢(チクマザワ)、北永井、上富(カミトメ)の四大字より成る。
竹間沢の東方、村の境界に当て柳瀬川あり。
其沿岸狭長の地、低湿にして、水田あり。
又藤久保の東方、小字俟野と称する処に、小池あり。
一小流是より発して鶴瀬村に入る。
池の周囲猫額の地亦低下せり。
此二地を除ては村内一円、高燥にして、陸田、森林相混はり、西南に赴くに従て、概して高度を加ふ。
土質軽鬆にして、粘土を含むとなく、重量軽く、乾燥すれば粉末となり、冬季風あるに当ては為に飛散し、野外の人を苦むと多し。
然れども耕耘に容易なり。
表面土壌黒八寸位より一尺一二寸に達し、概して根作物に適せり、農を以て主要なる生業となし、甘藷、麦、其他の菜穀、製茶を以て重要産物とし、養蚕も稍々行はる。
沿革
本村の地は往古武蔵野に属し、其開発せられたるも比較的近代に属
するが如し、試に正保年代の古図を見るに、竹間沢の外本村の地名一も存せず、元禄年代の古図に至て、はじめて四大字の名あらはれたれば、其開けて畑となり、村となりしと、大抵正保以後元禄以前に属するを推知すべし。
竹間沢は元仁年間(北条泰時の頃)に開墾に着手すと称せられ、殊に其柳瀬川に沿ふて、水田の地を有せるが如き、必ずや土地の開拓古代に存せしなるべし。
北永井は柳瀬村南永井と併せて、旧、長井と称せしが、其開発は勿論正保以後と覚しく、寛文九年はじめて川越領となり、其時検地行はれ、南北に区分せられたれば、其成立の年代も大抵早くとも明暦万治を出でじ。
或は寛文の初年に属するやも計られず。
藤久保は其幼藍は寛永八年にあれど、村の成立ははるかに遅く、北永井と相前後すべく、上富の如きは元禄年代に至て開墾せられし処たり。
更に社寺に就て之を見るも、上富の地蔵独り古きも、他は殆ど云ふに足らず。
但竹間沢の竹間神社と泉蔵院とは年代を知らず。
藤久保の広源寺は寛永十六年の創立(一説に慶長年中と云)なりと云ふ。
或は思ふ川越江戸街道成り、寛永の頃より漸く人煙を見るに至りしか。
四大字共に徳川時代には大低川越領たり。
然れども、北永井及上富は後年支配地となれり。
明治に至て川越領は二年川越藩となり、四年川越県となり支配地は元年知県事に属し、二年品川県、次で韮山県に入り、四年に至て全村入間県(二大区三小区)となり、六年熊谷県に属し、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所の所轄となり、十七年藤久保連合となり、二十二年三芳村成立す。
竹間沢は村の東南に位し、四方十四五町、民家一百に近し。
村の中央に竹林あり。
清泉湧出し、其辺を本村と称す。
依て思ふ。
竹間沢の開くるや、人戸此辺に先づ連り、而して竹間沢の名称も亦此処に基て生じたるを。
其開発の年代は口碑によれば元仁の頃(北条泰時の初年)に属すと云ふ。
村の中央、字南側にあり。
村社也。
末社に根本社、榛名社、金刀比羅社、菅原社、稲荷社あり。
村内の祠を集めたると覚しく、拝殿建築中也。(?)
社の北数十間に、村の良名主池上八郎碑立てり。
村の中央、字南側と称する処にあり。
真言宗新義派に属し、青龍山寿福寺と云ふ、大和田町普光明寺の直末也。
開山は僧承範と伝ふるのみにて年代詳ならず。
境内に勢至堂あり。
村の西北隅、字出久保にあり。
天台宗寺門派に属せり。
藤久保は竹間沢の西北に当り、村の中央より稍々東に偏し、東京街道の両側に係れり。
東西十三町、南北十六町許にして、戸数一百内外、此地寛永八年の開墾にして、其当時は東方鶴瀬に接せる小池の辺に人家を造りしも、東京街道の変通繁きに及び今の処に居を移せりと云ふ。
其移転は正保元禄の間にあるべし。
始居住せし凹地に元屋敷の小名あり。
又藤久保の名由て生する所も此凹地に喬木あり、藤羅之に攀縁して、壮観なりしに基くと云ふ。
村の南方、字南新野にあり。
木ノ宮稲荷と称するものにして、村社也、八坂神社、浅間神社をも合祀せり。
村の中央、字西と称する処にあり。
曹洞宗、渋井村蓮光寺末也。
開山は僧呑海にして、創立は寛永十六年なりと云ふ。
又或は呑海の示寂を慶長二十年十一月二十三日と、なすものあり。
之によれば寺の建立尚少しく早からざるべからず。
北永井は藤久保の西に接し、村の略中央を占む。
東西十余町、南北一里に達し、人家の構造頗大也。
戸数百戸弱あり。
此地其始は長井村と称し。
南永井と一村にして大村なりしが、延宝の頃に及び、二分し、且長を永と記すに至れり。
村の北方字宮本にあり。
村社にして、末社に八雲社、住吉八幡両社合殿あり。
宮本にあり。
上富は北永井の西に接し、東西十八町、南北三十町に達す。
戸数百二三十。
大村也。
此地元武蔵野の中に属せしを、元禄七年(九年トモ云)忠左衛門と云ふもの始て開墾し。
川越城主松平吉保之を上富と命名せり。
八軒屋にあり無格社にして、天保四年八月の創建也。
無格社にして、天保二年六月十五日の創建也。
近来富岡村中富の神明神社に合祀せり。
村の西北、小字木の宮にあり。
臨済宗京都妙心寺派、東京本所中之郷松嶺寺に属す。
三富山と号す。
元禄九年丙子三月。
川越城主松平美濃守保明此地に一寺を創立し、勅諡慈照妙眼禅師洞天大和尚を請して開祖たらしむ。
美濃守の弟虎峯玄章禅師之に嗣て住持となり、寺領若干を附し、且年々米百俵を賜はり、宝永元年美濃守甲府に移るや、城主より臨時寺費を扶けらる。
慶応三年火災にかかり、士蔵鐘楼を残すのみにして、他は悉く焼失せり。
明治三年住職柳沢柳門庫裡を再興し、現住職柳沢玄加明治十六年十一月を以て本堂を再建せり。
従て寺観元禄の昔に比して、劣れると勿論なりと雖、山門の付近の頗る幽邃なる、本堂の華麗なる、泉地の閑雅なる、然り而して境内の広濶にして、樹木多き、蓋し郡内屈指の名刹と云ふべき也。
木ノ宮にあり。
多福寺の東南僅に一町ばかり、武蔵野木ノ宮地蔵と呼ぶ。
俗に有名なる富の地蔵是也。
口碑によれば、坂上田村麿奥羽征伐の時、此地に来て天変に遭遇し、地蔵菩薩を祈て其厄を免れ、且其霊護によりて賊を平げたりしかば、凱旋の後奏問して、此地に堂を建て、木宮地蔵奪を勘請せりと。
故に「延暦二十四年九月上旬出現」と記せり。
或は一説に開基を六郷伊賀守と称し、或は田村麿の後、建仁元年二階堂隠岐入道(頼朝の幕下)再建せりとも伝ふ。
何れも恐らくは事実にあらざるべしと雖、要之古き創立也。
武蔵野話によれば
留村は上中下あり。
其上留に古より木ノ宮地蔵尊の堂あり。
七月廿四日地蔵の区(マチ)とて殊の外賑ひ、八幡公(角力)などあり。
古より南北武蔵野の半なる故、此地を地蔵野と云ひ、又中武蔵野と云ふ。
昔は大塚、亀窪村の原なりと云ひ伝ふ。
地蔵は亀窪村木ノ宮地蔵院及大塚村木ノ宮山西福寺の両寺之を守る。
と。
今も亦斯の如しの野話は又地蔵の本尊に就て古老の間に行はるゝ一説話を掲げたり。
其説によれば、中古地蔵の森頗る繁茂せし頃、出でゝ追剥強盗奸淫等を行ひしものあり、此に於て村民地蔵を土中に埋めて之を罰せりと。
然るに其後再び之を堀出さんとするもりありしが、未だ本尊に堀当てざるに日必ず暮れ、翌朝再び堀らんとすれば、既に埋まりて、前日の労空しかりしと云ふ。
堂は亀窪及大塚に於て之を管理し、境内広闊、堂宇壮大也。
此辺甘藷の名産地なれば、近来境内に碑を立て之を後世に伝へんとするの計ありと云ふ。