堀兼村

総説

現状

堀兼村は郡の中央部の一村にして、 福原村の西、 富岡入間二村の北、入間川町の東、奥富日東二村の南に位す。 川越町を去る三里、 所沢町を去る二里、 県道は福原村より来て二に分れ、 一は豊岡町に入り、 一は入間村に入る。 川越鉄道は村の西北部を通過せり。

土地些少の高低あるの外、概して高燥平坦にして、陸田及森林多し。 西北部は 粘質壌土、其他は埴土にして軽鬆也、野菜類、果実類、甘藷の栽培に適す。

不老川は入間村より来り、窪の川(福原村にて呼ぶ名称)は西北部に発し、共に流れて福原村に至る。 何れも小流也。

戸数五百五十一、人口三千七百五十一、堀兼青柳加佐志東三ッ木上赤坂中新田の六大字に分れたり。

沿革

堀兼村は堀兼井を以て名あり。 然れども堀兼井の真相殆ど捕捉すべからざるものあり。 太平記元弘三年五月十五日の合戦に、義貞堀金を指して引退くと記したり。 鎌倉街道は堀兼より加佐志東三ッ木を経て奥富村に通ぜしが如し。 然れども此辺一帯所謂武蔵野の原にして、 其曽て一聚落の存したりしとするも、廃滅頻々として、到底持続する能はざりしならん。 今日知り得る限りに於て村の開発を究むる時は、 西方の青柳加佐志、 三ッ木三部落を以て稍々古しとすべく、 堀兼上赤坂中新田を以て新しきものとせざるべからず。 然り而して堀兼井の名高きに似ず、 其村の新しきは甚だ奇なりと云はざるべからず。

東三ッ木、 元三ッ木村也。 金子村に同名三木あるに依て、彼を西三ッ木と名け、 此を東三ッ木と定めたるのみ。 伝ふる所によれば、 南北朝の始金子家忠の末孫、 金子和泉守国重なるもの金子村三ッ木に居住し氏を三木と改めしが、其後此地に来て、武蔵野の草莽を開拓し、村落を成すに及で、其地を三ッ木と命名せりと云ふ、永享天文の頃合戦あると一二回、 小田原役帳に三田弾正少弼二十貫文三ッ木とあるは、東西何れの三ッ木なるを知らずと雖、或は此地にや。 かくて青柳は天正の末年には既に明に存在し、 加佐心も略ぼ存在せしに近く、 堀兼は正保以後に成り、 上赤坂堀兼に次で成り、 中新田堀兼今福二村の間にありて、最も後年に開けたるを以て中新田と称すと云ふ。 加佐志は或は元風下と称せるにや。

江戸時代の所属、 三木加佐志は支配地若くは采地たり、 青柳は采地支配地田安家領を経て後、 川越領となり、 堀兼上赤坂中新田は常に川越領たり。 明治元年采地支配地は知県事に属し、 二年品川県、 韮山県、 此年川越領は川越藩となり、 四年川越県となり、 次で全村入間県(三人区五小区及六小区)に入る。 六年熊谷県となり、 九年埼玉県、 十二年入間高麗郡役所に隷し、 十七年青柳加佐志東三木北入曽連合に入り、 堀兼上赤坂中新田下赤坂連合となる。 二十二年堀兼村を編成す。

堀兼井

古歌に詠はれたる名所

堀兼井は古来頗る人目を惹き、武蔵野を語るものは迯水と共に直に堀兼井を連想す。 古歌頗る多し。

千載集 俊成卿

武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近きにけり

俊頼集 俊頼

浅からす思へはこそはほのめかせ 堀兼の井のつゝましき身を

山家集 西行

くみてしる人もあらなん自つから 堀兼の井のそこのこゝろを

拾玉集 慈円

いまはわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん

名寄 後の久我卿

堀兼ぬる水とのみきく武蔵野の 身はさみたれの波の下くさ

同 冷泉卿

武蔵野や堀兼の井の深くのみ 茂りそまさる四方の夏草

伊勢家集

いかてかく思ふ心は堀兼の 井よりもなほそ深さまされる

六帖 読人不知

武蔵野の堀兼の井の底澄み 思ふ心を何に例へん

廻国雑記 道興准后

おもかけのかたるに残る武蔵野や 堀兼の井に水はなけれと

等種々あり。

堀兼井と称する古跡

堀兼の井の世に知られたると斯の如し、然れども未だ何れの処に果して真の井跡ありしを知らざる也。

斯くて武蔵野の名勝として、堀兼井の名、著しきに従て、堀兼井の跡なりと称する処各所にあらはれ、或は荒唐なる伝説を附会し或は尤もらしき理論を構成して古跡争を行へり。 此故に堀兼の井の由来及其古跡に関しては、古来よりの諸書殆ど帰着する所を知らず、或は東京府多摩郡に於て之を求めんとするあり。 或は東京市中牛込、赤坂等の辺に之を定めんとするあり。 更に之を入間郡内にありとする多数説に於ても堀兼村入間村所沢近傍等の諸説混出せり。

此故に文政七年刊行の武蔵名所考には諸説を考定列挙せる上、自ら其地方に就きて井跡と伝へらるゝもの十四ヶ所を調査し一々之を挙出せり其要に曰く

余其地に就きて之を探りしに入間郡堀金村(今の堀兼村大字堀兼北入曽村、北入曽新田(入間村北入曽南入曽村等に於て土人七曲の井と称する古井の跡と覚しき窪かなる所十四ヶ所あり、皆堀兼の旧跡なりと云伝ふ(中略)其十四ヶ所は堀金村に七ヶ所、北入曽村に三ヶ所、北入曽新田に二ヶ所南入曽に二ヶ所あり

とて各の位置、実状を説述せり。 而して堀兼村内なる「カンヽ井戸」藤倉下奥富青柳村等の古井跡なども参考として説明せり。

堀兼の井跡と称するもの古来斯の如く多くして而も其帰一する所を知らざること亦斯の如し。 然らば其何れを以て真の古跡に当つべきか将た又別に堀兼井なるものに就て別個の所説を試みざるべからざるか是れ吾人の講究せざるべからざる所なり

堀兼神社及堀兼井

然るに普通には堀兼村大字堀兼堀兼神社境内に存する窪地を以て井跡と認定せるが如く、景行天皇四十年日本武尊東夷征伐の帰途

上総国より知々夫国に凱旋の際大旱に遇ひ給ひしかば尊命じて井を堀らせ給ひ、辛ふじて水を得たりとの伝説さへ残り、慶安三年五月松平伊豆守其臣長谷川源左衛門尉に命じ浅間神社(即今の堀兼神社)再営の時井跡の碑を立てしめ、次で秋元但馬守亦其臣岩田彦助をして碑を建てしめ、正三位牌原宣明の詩を刻せる碑 も亦建てらるゝに至れり。 斯の如くにして一般には堀兼神社の境内即是れ堀兼井蹟なりとの説行はる。

然れども一説には井跡はもと神社の丘下にありしを之を埋めて塚を設け丘を築くに用ゐし土を取りし窪地を以て井蹟と見做すに至れりと称し頗る曖昧なるを覚へしむるに加へて此辺の地凡て新田地に属し村名を堀兼と名けしも決して甚だ旧き時代の事とも覚えず。 更に諸国里人談三芳野旧蹟記には浅間祠より五六町南に井の跡ありと載せ、宗久旅日記に堀かねの井こゝかしこに見ゆめりと記し、比較的古き旅行記にして浅間神社々地の井跡を載せざるもの多し。 依是観是堀兼井古来必ずしも今の堀兼神社の境内ならざりしを知るべし。

堀兼井の断定に就て

斯の如く堀兼井の古蹟なるもの容易に帰着する所を知らずと雖、思ふに其遺蹟の如き決して某々の地即是なりと断定する能はず、又断定するを要せざる也。

蓋し古代の時に当り民人が新地に移殖して先づ最も必要を感ずるは水なり。 人は或場合に於て渇を以て飢以上の苦痛とすべし。 故に此等古代の民人が武蔵野の一部に来て先づ苦しみしものは水ならざるか。 之を今日の状態に見るも所沢町付近より入間堀兼等の諸村高台の地は井の深くして之を穿つに多大の困難あるは何人も認むる所なり。 況や古代人智開けず器具の如きも不完全なりし頃をや。 之を以て或は七曲形に土を穿ちて漸く水に逹せしめしもあらん。 或は穿井中途にして失敗に終りしもあらん、斯の如きもの伝はり伝はりて京人の歌にも詠はれ、遂に武蔵野の一名物たるに至りしなり。 然らば井蹟なるもの之を或一の地点に限定する必ずしも不可ならず、之を限定せざるも亦可なり。

堀兼

堀兼は村の中央より西南部に及び、𡋽(はけ)下及浅間(せんけん)之を堀兼とも呼ぶの二小部落に分る。 戸数二百に近かるべし。 𡋽下は即ち崖下の意にして、大家村欠上(かけのえ)、欠ノ下(した)と同類に属する地名也。

堀兼神社

大字堀兼の鎮守浅間神社にして、祭神は木花咲即姫命也。 四十一年十月東三木の鎮守愛宕神社及其末社を始とし、加佐志の鎮守羽黒神社及其末社、上赤坂の鎮守神明社中新田の鎮守愛宕社を合祀して堀兼神社と改称す。 本社は慶安二年三月の創建にして、昔時日本武尊東征の時大旱に遇ひ、富岳に折り天地感応ありて清水湧出せしを以て富士山の神霊を祀られしと云ひ伝へらる。 後世松平信綱其臣長谷川源左衛門尉遂能に命じ、武運長久を折り、再営せしが、明治四十一年十月に至り復改築せり。 丘上の社殿新にして前に仁王門を控へたり。 殊に境内は老杉生ひ茂り、神威霊なるを覚ゆ。 其名世に高き堀兼の井は普通此境内にありとせらる。 東西三間、南北三間円形の凹地也。 深二間半、四辺に石垣を設け、中央に井欄形を作りたり。 傍に藤原の宣明の詩、及秋元但馬守が起てしめたる碑石あり。 堀兼井そのものに就ては前に弁じたりと雖、仮りに此地を以て其古蹟を代表せしひるも不可ならず。

光英寺

元禄十四年奥富村瑞光寺抱持する処の古跡円照寺を堀兼に移し、教主護国寺の門徒たらんを請ひて許されたり、宝永二年に至り円照寺の旧号を改め光英寺と称し永く末寺たらんを願へり。 当時の願書今存せり。

上赤坂

上赤坂は堀兼の東に位す。 風土記下赤坂の条に、昔は武蔵野の内なりしも、万治三年下野国佐野の産なる石川采女と称せし人来て開墾すと。 上赤坂も大凡此頃成立したるものならん。 戸数二三十。 此辺矢根石を出すこと多し。 中田多之助氏の如きは最も熱心に之を集めたり。

神明社

堀兼神社に合す。

中新田

中新田は堀兼の東北に位す。 或は曰く此地堀兼今福二村の間にありて最後に開墾せられたるを以て名ありと。 或は曰く大塚中新田と称せられたるを略したるなりと。 戸数五六十。

愛宕神社

堀兼神社に合す。

青柳

青柳は村の北部に位す。 戸数五十。

氷川神社

村社也。

来光寺

真言宗、開山忠光寛文七年寂、明治五年廃寺

加佐志

加佐志は堀兼の西北にあり。 青柳の西南に当る。 戸数六七十。

羽黒神社

堀兼神社へ合す。

宝林寺

真言宗、開基は村民甚五右衛門と称するものなりと云ふ。 元和二年卒す。

東三ッ木

東三ッ木は村の西北隅に位す。 戸数三十。 三木国重の来り開きし処也。 三木氏は平姓武蔵七党金子家忠の子孫なりと云ふ。 南北朝の頃西三木より来て此地を開き、一族繁栄して永く此地に住す。 此辺矢根石を出すことあり。

愛宕神社

堀兼神社へ合す

薬師堂

三木国重の守本尊を安置し、三木氏の本宗、勇右衛門氏の宅地前にあり。 古は此辺全部其所有なりしとかや、堂は今も其管理する所にして、刀剣、鎧等の宝物あり。 堂後三ッ木氏の墓所あり。 中に妙□禅尼文明四年三月。 宝徳三年十月。 道雪禅門文明十七年十一月十三日と記したるものあり。 其他此辺に発見せられし板碑は飯能町能仁寺に寄托したりとかや朧ろげに語るものあり。

普門寺(小名)

普門寺は元普門寺と称する寺院ありしも、精明村川崎に移し、今は唯地名に存す、大門先若くは東陽寺大門と称する処には今日東村大袋に移れる東陽寺ありと云ふ。

新井

東三木の西部に位す。 新井某此地に要害を設けて居住せりと云ふ。 但里人は之を知らずと云ふ。

三ッ木原古戦場

三ヶ久保と云ふ付近の地にして今は大抵陸田となれり、地勢高平也。 永享十二年上杉持朝、足利義教の命を蒙て結城満朝を討んとせし時満朝父子三人早く打出て河越の北三木原にて上杉顕定と戦ひ松山城へ引籠れること上杉家図にありしと云ふ。 少しく怪むべし。

然れども天文六年川越城主上杉朝定、北条氏綱と戦ひ恢復を計らんとせしに七月十一日氏綱急に三木に進み、十五日城兵と戦て大に之を破れるは確に此辺ならん。 旧鎌倉街道の跡と称するもの此近辺を通過せり。 「イマルガ」橋と稀する小橋あり。 或は付近に砦趾もありて焼米などを出し、上の城とやら呼ぶと語れるものあるに依り、土地に就て質したれども、何れも知らずと云ふ。 砦趾の説は恐らく誤ならん。

堀兼井旧蹟所在地(名所考による)

堀兼村七個所

北入曽村三個所

北入曽新田二個所

南入曽村二個所

北入曽以下七個の井を称して、入曽の七ッ井戸と云ふ。