三ヶ島
総説
現状
三ヶ島村は郡内南部の一村にして、北は入間藤沢二村、東は富岡小手指二村南は山口村西は宮寺村に接壌す。所沢青梅街道、豊岡所沢街道村内を通じ所沢を去る一里半、豊岡町を去る亦同じ。
地勢南境に丘陵を控え、村内は北東に向て漸次下向せりと雖も概して高平の原地なりとす林川は宮寺より来り藤沢村に出づ、又村内に発して東流する小川あり、之を谷戸(やつ)川と云ふ土質は腐植質壌土也。陸田及森林多し。茶、繭、織物の産あり、三ヶ島、三ヶ島堀之内、糀谷、林の四大字に分れ。戸数六百、人口四千百三十三。
沿革
三ヶ島村の地方は古の宮寺郷也、其長宮神社(今は中氷川と称す)に蔵めたる正長元年九月廿三日の棟札に「大旦那宮寺惣地頭平朝臣蔵人、道一家、弾正重定沙弥道椿、四郎左衛門信重、吾那安芸守、久下筑前守」とあり、蔵人一家は何氏なるや明ならず。或は中氏か)又天文二十三年四月廿一日の棟札に「大旦那宮寺惣地頭豊後入道沙弥芳金、嫡子蔵人佐、末子向山勘解由左衛門高行、成木郷宮寺下野守」とあり、依て正長より天文の間、此蔵人入道の領せし処なるを知る。又丙寅霜月十日奉行向山甚五郎と記し、北条氏照の旨を受けて出したりと認めらると文書あり。丙寅は永禄九年に当り、甚五郎は前出勘解由左衛門の一族にして北条氏に属したるを知る可し。南北朝時代の戦に就ては第一章に述べたり。
三ヶ島は元西島、中島、東島と称する三区の部落を併せて成り由て三ケ島と称するものの如く其発生せるは何れの頃とも知る可からざれども林、糀谷、堀之内より明に古し。堀之内は三ヶ島の内なるを以て三ヶ島堀之内と称せられたり。糀谷も正保元禄の間に成り、林は正保の頃は村高至つて僅少なりき。
江戸時代の所轄、大低采地若くは支配地にして明治元年知県事に属し二年品川県となり、次で韭山県となり四年入間県(三大区三小区)に入り、六年熊谷県となり九年埼王県、十二年入間高麗郡役所ヶ轄十七年北野を加へて三ヶ島村外四村連合となり、二十二年北野を除て三ヶ島を成す。
三ヶ島は村の東部を占めたり。戸数約二百。石鏃を出すと多し。
堀之内に近く青梅街道の南に沿へり元長宮明神と称したりしが、祭神の氷川神社に同じきと長宮の中宮に転じたるものゝ如きと、彼の正長の棟札に中氷川社造営とあるによりて中氷川社と称するに至れり。社殿壮大ならずと雖も、頗る古雅也。境内広大ならずと雖も、頗る幽静也。神槻周囲三丈にも近からん。既に半朽ちたり。社に応仁二年の日本記写本三十巻を蔵す。甚が破損せりと云ふ。
青梅街道の北五六町の処に在り。光輪山と号し、曹洞宗也。開山呑碩承応元年寂す。開基は地頭沢氏也。古は寺山と称する処にありしを、後此処に移せるなりと云ふ。村内に於ける大なる寺院也。
街道の北に在り、古は東島山と号し後稲荷山と改む、新義真言宗に属す。
実玉院の北に位し街道の南に接する高台に在り長坂山薬王寺と号す。真言宗也。薬師堂及石尊社あり。
廃寺
風土記に曰く、「本山派修験也。応長元年良円と云ふもの起立す。此良円は宮寺五郎の子にて初宮寺小太郎家吉と称し此処に蟄居し。優婆塞となり云々」と。此の記事注目の価あり。龍蔵院阿れにありしや。未ざ詳ならず。
下田にあり。小流に沿ひて梅樹あり。太平記に載する花一揆が梅の枝を折りし処なりと云ふ。
仲氏は三ヶ島の旧家也。風土記に曰く「先祖を仲筑後守資信と云ふ。古尾谷の城主なり。資信の男を近江太郎信重と云ふ。信重と云ふ名は中永川社正長の棟札にも見えたり。信重の男蔵人将監資重より子孫今に至る」云々。中永川社祭礼の時は必ず仲氏第一に祭事に預ると云ふ。按ずるに古谷村善仲寺、南畑村万蔵寺、西蔵寺等の伝にも、仲筑後守、古尾谷近江太郎の事蹟を伝へたり。其の伝説を併せ考ふるに混乱して弁じ難ければ、姑く茲に家伝のまゝを載す」と。
三ヶ島堀之内は村の南部にあり。戸数六七十。堀之内の名称は郡内一般の例を以てすれば館跡の所在地なるが如し。未だ検を得ず。
小田原時代には堂入と称する処にありしが其后衰亡に垂んとするに及び慶安年中復興し今の処に寺堂を建てたりと云ふ真言宗也。
風土記に曰く「先祖は勝楽寺村リウカイの城主豊後入道伏見小太郎或は星見小太郎と称するものあり)の家人にして、筑後守と称し、三ヶ島に居れり。小田原陣の時にや、リウカイの城攻め落され、村内別所山とて四方十町許の山へ、豊後入道の弟子七人を具して隠れ住み、農耕を事とし子兵庫助まで二代谷山に居れり。今の与平次山クボ屋敷跡は其旧所なり」と。
南方の一山也。此辺より曲玉、管玉、石斧、石鏃を出す。又付近の塚より土鍋を発見したるとあり、千年前のものなる可しと云ふ又山に二十年前方一間深一丈、底方二間程の穴を発見したり。又山の南五町ばかりにして「猪落し穴」といふ所あり三ヶ島分一、山口分一、宮寺分一ありて何れも其面影を存す蓋し近古猪を追落せしめて之を獲りし処ならん。
糀谷は村の西部にあり。戸数百二三十。
青梅街道の南一町ばかりに在り。
東方に在り。古寺地なりしと云ふ。板碑等を出す。
林は村の西北部に当れり。戸数六七十。
元重殿神社と称せり。
長清山と号す開山吟国永応二年寂す曹洞宗也。
村の諸処に至り末だ確ならずと雖も依て以て志気を皷撫するに足る。