元加治村

総説

元加治村は郡の稍々西南部に位し、北は精明村、東は水富村、南は東金子村金子村、西は加治村に連り、飯能町を去ること一里、入間川町を去ること一里半ばかりの処にあり、村の南に阿須の丘陵あり、村の北部に高台あり、中央は入間川の流域也、陸田多く水田少し、山林も乏しからず、土質河岸は良好なる壌土帯なれど、河南丘側の地は粘質を含み、河北高台の地方は軽鬆なる瘠土也、入間川は付近の水田に灌漑の利を与へ、三除神堀、藤田川、田中堀、上谷堀、永銭三貫堀、飛朱首堀は西北より流れて之に注ぎ、広谷川、大沢堀、深沢堀等は南より下て之に入る、織物業、養蚕業、盛大にして、農業以上の観あり、従て織物、生繭の産多く麦、米之に次ぐ、鮎は入間川の名物也。

入間川、飯能間の街道は、河北約数町の高台上を走り、馬車鉄道も之に沿ふて運転せり、二大字に分れ河の北を大字野田といひ、河の南を大字仏子と称す、人口二千五百八十一、戸数四百九十七、村は明治貳拾二年町村制の行はるゝに当り、元、加治氏の居地なればとて、元加治村と名けたりと云ふ、其沿革は便宜上分説せん。

野田

野田村開発の伝説

里伝によれば、此村昔時茫々たる曠原なりしを.武蔵七党の中、小野姓野田某なるもの来て開拓に従事し、入間川に沿ひて人家散在したりしが、未だ部落を成すに至らずして野田氏は此の地を去れり、然れども人皆野田氏の創業を欽慕して村名となすと、其後降て天文永禄の頃、西久保、新井、高杉、小林、畑、横田、清水、等の諸氏協同して道路を開き溝粱を穿ち、田畑を作り爾来人口漸く増加して、遂に今日に至る、故に村民は之を村の草切七家と称し、その子孫を以て従前の村吏に推せり。

野田の支配者

里伝によれば、治承年間、新田大炊助義重入道浄西郷司職に補せられ、(元弘年間加治豊前守家茂より累代之を領し、天正年間北条氏照に属し、旗下加治左馬助(加治氏此時氏照に従ひしと見ゆ)をして之を支配せしむ、天正十八年徳川氏の直轄地となり。代官の支配、正徳元年川越領となり、秋元氏四代、松平氏三代にして、天保二年再び秋元但馬守知朝(館林藩)に帰し、若狭守久朝に伝えしが、弘化元年、復、松平大和守の領に帰し、三代相伝へて明治二年前橋藩と称し、四年前橋県と改め同十一月入間県に入り、十七年根岸外四村連合戸長役場に属す、二十二年元加治村となる。

社寺

白髭神社

野田の中央に位し、飯能、入間川間の街道に面せり、村社也。寛永元年三月、三浦某の勧請にして、同十年村の鎮守と定めたりといふ、寛文及元禄の検地帳には除地たり。四十年無格社八坂神社を合祀す、末社十一あり、千機社、稲荷社、山王社、八幡社、天神社、白山社、愛宕社、水神祠、丹生社、厳島社、浅間社是也、境内広濶、樹木茂れり、西隣は元加治小学校なり。

長徳寺

街道の北に位し慈眼山と号し曹澗宗通切派直竹長光寺末也、享保、寛政の両年度火災あり、古記、烏有に帰し創立の年紀を詳にせざれども、伝語、墓碑等によれば、直竹長光寺より独住存賢禅師来り此寺を開く。長禄元年二月寂す。其後元和五年長光寺八世庭庵慶徹和尚中興す、寛永六年寂す、本堂あり、小堂あり、鐘を本堂の軒に掲ぐ。

円照寺

村の西南隅に当り入間川に近し、真言宗新義派高麗村聖天院末、土御門天皇の時、加治左衛門尉家秀及野田与一経久なるもの元久二年六月二十三日武州都築郡二俣川に於て畠山重忠と戦ひて討死す、依て其子の加治豊後守、田沼宗茂父の菩提のため円照上人(俗姓加治氏、父は刑部亟盛道)と一寺を建築し光明山正覚院円照寺と号し、加治氏累代の香華院たらしむ、円照宝治二年八月寂す、其後建長年間火災あり、康元元年加治左衛門尉、田沼泰家に咨り尊永上人(俗性不詳)と諸堂を建り、多治比氏の氏神、丹生明神を勧請し、寺門守護神となす、康元より元亀、天正に至る三百余年間寺門の盛衰ありと雖、加治氏の尊敬する所たりしは其累代の墳墓によりて知る。天正年間聖天院二十五世円真上人退老して此寺に住し朝弘法師に法を伝え嗣住たらしむ、依て法師を中興とす、当時三浦城之助某といふ者資を投じて之を賛助す、依て三浦氏を大旦那とす、境内には門徒金蔵寺並寺家七戸俗に門前百姓といふものあり、凡て当寺に隷属しき。今の本堂は元禄中の建立にして特に壮麗ならずと雖、又卑野ならず、加ふるに士地高くして、三方開闊なる、泉池の清浄にして、雅致ある、厳島祠の閑雅なる、金剛殿と記したる一堂の厳然たる、境内の風致実に絶好なりと云ふべき也。金剛殿の後方に元丹生明神あり、明治の始め之を白髭神社に合せりといふ、泉池の中に七不思議あり、後方の竹林中に加治氏代々の墓石あり。

仏子

仏子の沿革

仏子は古、武士と記せりと称す、其説、詳ならざれど、仏子を読で今もブシと呼べり、其開発の始め民家僅に四軒あり、大久保、平岡、石井、宮岡の四姓是也。其子孫今も存す、古は村内を四分して各其一を有ちしといふ、宮岡氏屋敷たりし処は今は他姓之に住すと雖、周囲に土手を繞らし、其傍に大板碑二基あり、建長二年七月二十九日及文永五年□□十二月と記す、其下に至徳と刻せる小板碑あり、風土記には四軒各大板碑ありと記し、又村の西端にも今尚大板碑あり、又高正寺門前にも大板碑あり(建長八年七月十二日と記す)其後降て天正、慶長の頃には民家十五軒となり、文化の頃には八十戸となり、今は漸く百三四十に近し(今も前掲四姓の家多数を占め其他は桑原浅見石塚長岡等若干あるのみ)管轄は天正十八年代官の支配地となり、慶長三年六月検地あり、其頃は貢税を多摩郡青梅村陣屋に納めしと云ふ。宝永四年以来采地となりしが、明治元年武蔵知県事の管轄となり、二年品川県、韮山県を経て、四年正月高正寺領も韮山県に合し、同十一月全村入間県(三大区四小区)となる、明治十七年岩沢連合に加はり、二十二年元加治村となる、柿は此地の名産なり。

社寺

八坂神社

字霞沢に在り、村社にして、明治四十年、字霞沢の村社八坂神社、字西方欠下の白髭神社、字中島の家忠神社、金子坂の諏訪神社、字上広瀬の第六天社の五社を合祀せり。

高正寺

村の中央部に位し、曹洞宗金子村瑞泉院の末にして、諏訪山万齡(?)院と号す、建保年間、村上党の金子六郎家範、同十郎家忠の弟余一親範の創立也、始万齡院と称し、密宗の道場なりしが、大永の頃、親範の遺族、万齡院の旧跡を再興し、瑞泉院二世菊陰瑞潭禅師を以て中興となす、依て曹洞に入る、寺に金子氏の系図あり、墓地に「秋翁山公和尚宝徳二二年」及「観応二年」と刻せらる大板碑あり、寺は元現境内の東南広町と称する所より移せるものにして、恰も大永元年中興の際に当ると云ふ。大永二年十二世高岸和尚、開山二百五十回忌を以て山門鐘楼を造る。今存する所のもの是也、楼上に宝暦十年の鐘を掲げたり、宝蔵衆寮等は、維新の際取去りたりと雖、本堂清浄、楼門奇古、境内の風致甚だ佳也。小池あり、厳島祠を祭る、後方の丘上眺望頗る宜し。

金子氏に関する古蹟

金子坂は字広町より丘陵を越えて、金子村に出てんとする処に在あり、古よりの名称也、坂より燧石を出せりと伝ふ。御霊神社は高正寺の東北に位し、元御霊塚の上に存して、或は親範を祭れりと云ひ、或は其先妣の墓跡なりとも称す。又中島に家忠神社あり、高正寺七世驚州和尚の時、家忠の武具を埋めて其上に社を立てたりと云ふ、中島の鎮守なりしが今は八坂神社に合せり、御霊社も今はなし、館址は広町にあり、陸田の稍々平坦なる処より南方、丘陵に挟まれたる、渓間にかゝれりと覚しく、丘に近く、稍々土手跡とも覚しきものあり、其辺古瓦を出し、布目あり、或は往々にして金形を存するものあり、親範承久三年五月廿五日逝去の後、其館跡を香華院に当てたりと云ふ。