神明社
字一本杉にあり、村社にして、明徳二年十一月以前の創立也。今は字熊坂の熊野社、(伊邪那美命)、隣地字笠縫の神明社(天照大日霊命)、地神社(神倭礼彦命)、稲荷社(宇賀碑命)、同上(同上)の五社を合祀せり。
川寺は笠縫の西北に連れり、東西五町、南北之に適ふ、人家五十余、川寺の地、旧、寺院多くして川に近し。依て此名ありとも伝ふ。村内明神社鰐口の銘に明応四年癸酉十一月五日加治領奥谷明神とあり、或は然らば此辺を元奥ヶ谷とのみ唱へ、川寺の称は後世に出でしにや。
字一本杉にあり、村社にして、明徳二年十一月以前の創立也。今は字熊坂の熊野社、(伊邪那美命)、隣地字笠縫の神明社(天照大日霊命)、地神社(神倭礼彦命)、稲荷社(宇賀碑命)、同上(同上)の五社を合祀せり。
字熊坂にあり。真言宗新義派にして比企郡今泉村金剛院末也。貞治四年八月僧希西の創立にして、希西翌年寂す。寛政の始覚誉中興す。今の本堂は寛政時代の建造なれど、古風の趣あり、堂は元は少しく南方、墓地の傍にありしと云ふ。墓地に大板碑あり。
貞治五年 丙子 七月廿五日 沙弥希西
右○○○為逆修善根
造立塔婆伏願四部○○
永徳二年 壬戌 八時正○虎敬白
三十七人現世安穏後世
○○法家含雪○○○
と記し。尚一基は文字不明也。又傍の小板碑には、
康安二年 壬丑 九月十三日放宗敬白 禅尼立
と記せり。又墓地と本堂の間路傍に板碑塚あり、無数の板碑積み重ねられたり。
此等は凡て境内南方の林地を開墾する時発見したるものなりと云ふ。寺に曽て畠山重忠の乗鞍と称するものを蔵したりきと云ふ。
字矢の目にあり。真言宗新義派にして、高麗村聖天院末也。応安六年九月十三日本寺聖天院五世重誉開基たるを旧記に存す。重誉は永和年間入寂せるを石碑にあり。寛保二年八月廿五日当村椙田五左衛門男得度し光運になり、中興開山となる。明和五年八月十五日入寂の霊碑今尚存す、本堂屋根高くして古風也、庫裡あり、別に虚空蔵仏を安置せる仏堂あり。其構造堅固也。境内雑草繁茂し、墓石の間小虫の鳴咽をきく。
矢田川の上流にあり、昔時平将門、岩淵村の山上より矢を射たるに、前貫、矢颪を過ぎて、此処に落ちたる故祠を立つと云ひ伝ふ。荒唐信ずるに足らずと雖、弁天の祠は存す。
弁天の西三丁余の処にあり、矢の落ちしは実に此処なりとも云ふ。 小祠あり。矢の根を矢の目と云ひたるは後世の誤ならむか。