矢下風は村の西部を占め、東西十六町、南北十町、人家七十、多くは丘陵に沿ふて散在せり。此村正保の国図及田圃簿に見えず、元禄の国図には載たり。何れの頃。何れの村を割て一村とせしにや。案ずるに前ヶ貫村天保の高は正保の高より其半を減ぜり。恐らくは前貫を割きて、矢下風と名づけしものか。宝永以来黒田豊前守の領地なりき。
曹洞宗通幼派にして能仁寺末、慶長年間村民協力して、古来の衰寺を修営し、能仁第五世吉州伊豚を招請し寂光山浄心寺と称し、伊豚を開山とす。其頃より一寺たりしを伊肝(月に子)の時再興し、宗派寺号を定めたるならむ。左の二堂は元寺の境内にありしを明治九年境外堂とせるもの也。
天明三年浄心寺六世良寛の建立也。
創立年月不明なれど、享保十五年、浄心寺四世恭厳再建せし棟札あり。