阿須は村の南部に当り、入間川の南岸に当る。東西十町、南北十一町、戸数五十三。
風土記の要に曰く、「村の東仏子村界にあり。古は連綿せし山なりしが、入間川洪水の時、山崩れしより、数十丈の崖となれり。下より望めば恰も屏風の如く、又崖の西辺より山間へ入ること二町許にして谷間に一丈より四五丈に及べる崖あり。其中腹或は谷底に槍皮あり。其様恰も太古高堂大厦ありて地中に埋れしものゝ如し。屋根の端と覚しさ所長三四十間、厚三尺許、又大木柱の様なるものありしと云ふ説あり。土人此辺を瀧の沢と云ひ、又大沢と呼ぶ」と。高岸谷となり、深谷陵となる。天地の変革亦偉ならずや。断崖の趣頗雄大崖上の眺望亦甚だ佳也。
村の東方にあり、阿須山に続き、丘上の比較的高地を占む。付近に陣峯あり。平坦にして狭長なる、丘頂也。此地正平十年の昔高麗彦四郎経澄の陣せし処と覚しく、後の新堀村町田氏文書に所謂「阿須垣原」の戦は蓋し「阿須崖ヶ原』の戦ならん。丘下渓谷の間に鎧塚あり。或は明治二年発堀して石碑六基を得たりと云ひ、或は何物をも出さず。且此地田土の堆積にして、古墳にあらずと云ふ。然れども其形状等より見て恐らく其古墳なるを覚ゆる也。阿須崖、要害山の山脈頗奇異、而して渓谷に古蛇龍潜めりと称す。当年の将士地下に鬼哭して夜嗚するものそれ幾何ぞ。
字山王塚にあり、天正明年の創立なりと棟札に記せり、但其始字 深井にありしを文化二年四月社地山崩によりて今の地に遷せる也。境内広からずと雖亦幽邃也。
字孫治山にあり、無格社也、天和二年九月の創立と言伝ふ。
字山王坂にあり、曹洞宗通助派能仁寺末虚空蔵を本尊とす、創立年月不明なれど、境内建久三壬子年四月一日を初とし、元享、元徳、康永、応安の古苔碑現存せりと云ふ、(著者は之を見ず)。且古老の口碑にも其頃已に創立ありしが如く伝ふ、寛永年間能仁寺七世文広道徳風化し、遂に中興開山となると、過去帳に明記せり.文広は寛永十二年八月廿八日寂すと云、(碑あり)丘上の寺堂清浄にして、境内極めて閑静也。