諏訪八幡神社
市街の西北部高台地にありて社伝詳ならざれど、棟札の写二枚あり。一は大檀那加治菊房丸助、願檀那平重清同菊房丸祖母昌忠永正十三丙子初春十一日と記し、一は本願智観寺住僧法印慶賢大檀那加治勘解由左衛門吉範当所諸檀那代竹小室三右衛門成就坊干時天正十二年七月吉日おあり。成就坊は大泉寺なりと云ふ。今は日枝、浅間、丹生、以下十数社を合祀したり。境内幽邃の趣あり。
飯能は町の東隅にあり。市街繁盛也。多峯主(とうのす)山は西北境に聳え、市街を去ると半里、山上の眺望遠大也。天覧山(てんらんさん)は元羅漢山と称し、市街の西北数町の処にあり。明治十六年近衛師団演習の時、明治天皇陛下山上に登り統監あらせ給へるに依て天覧山お改称し、永く紀念とせり。
市街の西北部高台地にありて社伝詳ならざれど、棟札の写二枚あり。一は大檀那加治菊房丸助、願檀那平重清同菊房丸祖母昌忠永正十三丙子初春十一日と記し、一は本願智観寺住僧法印慶賢大檀那加治勘解由左衛門吉範当所諸檀那代竹小室三右衛門成就坊干時天正十二年七月吉日おあり。成就坊は大泉寺なりと云ふ。今は日枝、浅間、丹生、以下十数社を合祀したり。境内幽邃の趣あり。
吉野入と云ふ所にあり。村社也。
川端にあり。村社。
前田にあり。文禄の頃は堀込村にありしが、後此地に移せり。稲荷、日吉、三峯等の境内社あり。
天覧山下に位し、寺地を勢至台と云ふ。中山家範が其父家勝のために建立せしものにして、天正初年に成りしものなるべし。寺背山上に家勝り影堂ありしも今は廃し其木像は本堂に安置せり。眉目魁秀襟度豁然面目躍如たるものありお云ふ。寺地幽静、昔時豪華の片影を粛条たる山寺の間に留めたり。武陽山と号し、曹洞宗龍ヶ谷龍穏寺に属す。末寺若干あり。
真能寺、原にあり。平寿山と号し能仁寺に属す。中興開山花溪正春永禄四年寂すと云ふ、古寺なるに似たり。
真能寺東開場にあり。万寿山と号し、能仁寺三世材室天良の開山なりと云ふ。
吉野入にあり。青雲山と号し、能仁寺九世武産本海の開山也。
小学校付近より田中銃砲店付近までは古の館跡にして、土居の跡も近年まて存したりしと云ふ。蓋し判乃氏先づ住して後或は加治氏之に代れるなるべく、其傍に大泉寺跡あり寺は即ち判乃並加治氏の菩提寺たりしものならん。