高麗村
総説
現状
高麗村は郡の西部に当り、其村の位置たる、飯能町を南にし、東吾野村を西にし、山根村西北にあり。
高麗川村北及東にあり。
而して精明村其東南に境せり。
川越町を去る五里、入間川町を去る三里也。
高麗川(上流吾野川)は村の略中央を曲折迂余し、二十余の小流は北及南より流れて之に注ぐ。
即ち北には日和田、物見、高佐須、山王峠の諸山あり。
南に多峯主葛良久峠、梅原峠、高根沢の諸山あり。
土地概して高峻なれど、東部には稍々平地あり。
土質西部及北部は粘質壌土、南部は壌土、東北部は軽鬆土にして、何れも幾分埴砂礫の質を帯びたり。
山地多きを以て薪炭の産多く、養蚕も行はる。
田畑は村の地積に比して広からず。
柿栗鮎等も出づ。
川越吾野街道は東より来り、飯能吾野街道と村内に於て相合し、高麗川に沿ふて西の方東吾野村に入る。
車馬の便あり。
新堀、高岡、清流(せいりゅう)、高麗本郷、久保、横手、台、梅原、栗坪、楡木(にれき)の十大字より成り、戸数六百六十。
人口三千八百五十二。
沿革
霊亀二年高麗人此の地に入りて、新堀を中心として、近附に散在し、高麗郡成り、高麗郷成り、高麗王と称する家よりは高倉福信出でて頗る朝廷に用ゐられ、武蔵国司とも成る。
其高麗氏の家は代々続て今に至れども、中古武蔵七党円の党に高麗氏を称するものあり、新堀村町田氏文書に見えたる高麗彦四郎経澄の如き是也。
経澄等は正平の頃足利尊氏に従ひ、屡々忠勤を枉て、或は羽根倉(宗岡村なるべし。
)に難波田九郎三郎を倒し、阿須崖ヶ原(原文何須垣原)に戦ひ、更に武蔵野合戦に戦功あり。
高麗郷の地頭たりし也。
高麗王系の高麗氏の外に丹党の高麗氏あり。
王系高麗氏の系図乃至系統にも聊か詮議すべきものなからず。
且高麗郷の本郷が高麗氏の居にあらずして、紀州熊野より来れりと云ふ。
新堀氏に依て生じたる新堀が実に高麗人の守護神大宮神社の鎮座せる所にして、今も高麗氏の居なる如きは、必らず説明を要する所に属す、
若し夫れ高麗氏の居地と大宮神社の社地と、更に高麗寺聖天院の寺地とが、丘側の狭隘なる所に位せるが如きは上古住居の一斑を示すものとすべきや否や。
新堀村乃至高麗付近の研究は愈々興味を感ぜずんばあらず。
小田原の頃三田弾正少弼十五貫文楡木の地及貫高不明横手の地を知行し、松田左馬助二十貫文横手を知行せしと、役帳に見えたり。
江戸時代には采地あり、支配地あり。
中頃以後村の大部分一橋領となりしが、明治元年采地支配地は知県事、二年品川県、韮山県となり、一橋領は二年韮山県となり、四年全村入間県(四大区五小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、(高麗郡)、十七年十村連合、二十二年高麗村を成し、二十九年入間郡に入る。
新堀は村の東北部に位し、人家百余、伝へ云ふ、古紀州熊野より新堀氏此地に来て草創せし故、即村名となせるなりと。
今も村民に其氏を称するもの残れり。
有名なる高麗彦四郎等に関する十四通の文書は町田松五郎氏の家に蔵せり、如何なる故なるやを詳にせず。
字大宮にあり。
社掌を高麗典丸と云ふ。
祭神は猿田彦命及武内宿禰及高麗王若光なりと云ふ。
高麗氏並に里伝に存する所を総合するに来歴左の如し。
天武天皇の御世高麗若光国乱を避け、本邦に来帰す。
従五位に叙せられ、親族臣民尋て来る者多し。
文武の大宝三年王姓を賜ふ。
元正の霊亀二年当国に移住せしめ、高麗郡ををく、乃ち若光居を此地に卜し、属戚群臣多く群居す。
後漸く各所に散在して地を開けり。
若光猿田彦を崇敬し一社を創し、武内を配祀し、白髭明神と称し、群中の栄盛を祈る。
若光よく衆を撫し、之を安す、共後裔分派して各姓を改む、但正統依然高麗を称す。
若光の長子家重つきし時、貴賤若光の霊を祭り、高麗神社と尊称し、遂に白髭社に合祀す。
高麗人の各地に散在せるもの之を分祀して皆白髭明神と称す、中古二十一社の多きに及べりと云ふ。
当社往古は大宮山嶺にありしを中古今の地に遷す。
宝物
若光携帯の大刀、鏡、駒の角(乗馬に生ぜしとぞ)外数品。
大般若経
建暦建保年間慶弁顕学房下野足利雉足寺に寓し筆写して奉納す。
年所をへて数巻欠乏し。
明応中補之、鰐口文明十七年正月慶璽奉納再建天文二十一年(棟札あり)
と。
高麗氏の系統甚が明なるが如く、亦甚だ明ならぎるが如し。
其祖或は福徳に出づると云ふ、大宮白髭の祭祖の如きは決して猿田彦、武内等にあらざるべし。
境内に八坂神社あり。
又境外末社水天宮あり。
今の社殿は明治二十五年改築せるものにして、社は高麗村内八大字の鎮守也。
字原にあり。
創立不明、元新堀新田稲野辺原にありしを今の地に移せり。
字宮の前にあり。
宝暦九年十一月再建の棟札あり。
字稲荷台にあり、伝に云ふ。
新田氏の族堀口某上野に走らんとし、此地を遇ぐる時、白狐草摺の間より現れしを見、武運盡きぬと嘆じて、此地に止まり一社を創せりと、何所の戦の役なるかを知らず。
元原宿村に属せしに新堀村と争論の末、訴を起し、遂に新堀村に属するに至れりと。
其年所不明也。
字寺山にあり、新義真言宗京都知積院末、由緒に曰く、天平勝宝三年高麗王若光の侍、急勝楽冥福を祈らんがために伽藍を創し、半途にして寂す。
若光の第三子聖雲嗣ぎよく師の遺志を受け、不年落成し父の齎らせし聖天を安置す。
茲に高麗山勝楽寺聖天院と号す。
爾来六百余年、慶理円宗の梵筵を張りしが、貞和年間秀海上人、醐醍無量寿院僧正公紹にりき真言神秘法を禀承し、此時初めて真言の道場となる、寺は寛永年間火災にかゝれり。
寺堂大、山門壮麗、境内も広くして静寂也。
若光の墓(石五層にして高六尺五寸余)あり。
鍔日(応仁二年)半鐘(本堂の隅にあり文応二年三月鑄。
)不動書像(土佐昌光筆)、曼荼羅等あり。
字吹上にあり、新義真言宗、上野口医王寺末。
庭前の築山、自然の岩石にして頗る大なり。
字新井にあり。
新義真言宗聖天院末也、慶長三年木村大膳之を建立すと云ふ。
風土記に曰く「聖天院の東、高麗川の西の方を云ふ。
鎌倉物語を案ずるに、永享十二年の頃上杉修理亮相州の守護として、高麗寺の下徳宣に陣を取ると見えたるは正しく此地なるべけれど、今其各所を失して詳ならず云々」と。
然れども此高麗寺は相州なるに似たり。
高岡は新堀の西及南に連り、東西八町、南北又之に適ふ。
人家五十。
新堀大宮の辺より地形頗る高きを以て高岡と称するとか。
小名に岩本、杉本、地福、梅本などありしは聖天院坊の跡なるに由て名けしとかや。
字榎戸にあり、明治四十四年高麗神社に合祀せり。
字杉本にあり、四十四年高麗社に合祀せり。
清流(せいりゅう)は高岡の西に連り、東西四町、南北二十余町、戸数三十、村の南小名井戸神と云ふ処より古清泉涌出せし故名けしとかや。
字清流にあり、四十四年高麗神社へ合祀す。
高麗本郷は清流の西に連り、東西二十町、南北三十町に逹せんとす。
正保の国図には高麗町と見え、元禄改定の図には高麗本郷となれり。
其後何れの頃よりか村内を四組に分ち、日向、市原、駒高、高麗本郷とせり。
而して各区里老を設け貢税を納めたりき。
其戸数六十八あり。
今は大凡七八十にも逹せしならん。
郡内第一の名山と称す。
登道十五町、山上の眺望雄大なり。
字上ノ原にあり、八千歳命を祭る。
由締不明なれど、正中二年の棟札あり。
貞享二年堀口西源再建と云ふ村社也。
日和田山上にあり、神体を石櫃中に安置せり。
字干鹿野にあり、貞和元年十二月十二日再建の棟札あり。
古来誤て聖天宮と称せしを明治二年復称す、村社也。
字上ノ原にあり、新義真言宗聖天院末、元文元年十一月八日中興の秀伝入寂の墓表存す、慶安二年十一月十七日。
楡(にれ)木は村の東南部に位し、東西五町、南北十一町、人家四十余村内に旧家と称する農家四五家あり。
その一家に存する楡木は類無きものにして、村名も之より起れりと云。
此農民等は皆高麗王に陪従して、爰に移りしものゝ子孫なりと
云伝ふ。
字貝戸にあり、口碑に寛永十二年建立元文五年二月比留間儀右衛門有志によりて再建すと称せらる。
村社也。
字中里にあり。
元禄十年四月十八日世田ヶ谷領沼部与兵衛より市兵衛に譲渡の証書あり。
字東野にあり。
新義真言宗にして薬師如来を安置す。
創立不詳。
栗坪は楡木の西に位し、東西十町、南北九町人家百に近し。
栗を以て名産とし、之を坪内に貯ふれば翌年仲春に至るも其味変らざれば、栗坪の名の起れるものなりと云ふものあり。
慶長二年高麗本郷にありし陣屋を当村に移し、又本郷の所謂高麗町の人家も若干移り来て、隣村梅原の辺まで軒を貫ねて居をなせり。
之を以て此処を以て高麗町と称へ、四八の市立ちしが、元文二年より代官在住の事止み、其後田安領となるに及び、陣屋の跡を発開して高入とせしかば、当所の市も衰へ、後遂に廃止せり。
字町にあり。
由緒不明。
字御蔵の丘山にあり。
社下は即ち絶壁にして、高麗川其下を廻り、淀みて淵をなす、風光佳也。
一は御蔵にあり。
一は東原にあり。
字馬場にあり。
新義真言宗、聖天寺末なり。
字東原にあり、新義真言宗、聖天寺末なり。
字御蔵にあり、新義真言宗、聖天寺末。
梅原は栗坪の西南に位し、東西五町、南北十町、戸数六十、高麗町の旧称あり。
養蚕盛に絹木綿を織て生計を資くるもの多し。
其堀口氏に北条氏規の文書外一通を蔵せしが、今は其所在詳かならず。
字鍛治屋原天神山の岩上にあり。
菅公を祭る。
由緒不明、高麗川に臨み風光よし。
字天王にあり、由緒不詳。
字瀧尾にあり。
真言新義派、聖天院末、
台は高麗本郷の南に当り、東西六町、南北十二町、人家七十、久保村と接し、当村は高く、久保村は低し。
依て各其名をなせりと云ふ。
字住吉にあり、日本武尊を祭る。
天正の頃岡上隼人肋秀景の建立なりと云ふ。
久保は台の西に位し土地低し、土地低湿也。
東西四町、南北十二町、人家二三十。
字亀竹にあり。
享保八年の社寺調書に鎮守摩利支天并に社地二畝歩の記あり。
以来勝蔵寺にて社務を取りたりし為誤りて摩利支天と称せしならんと云ふ。
高麗川下を流る。
境内に山神稲荷の両末社あり。
字七曲にあり。
創立不詳なれど享保八年の調書に記されたり。
明治四十四年高麗神社に合祀す。
字亀竹にあり。
新義真言宗、聖天院末なり。
横手は村の西部にして東西十五町、南北一里余、人戸八九十、天正の頃山口若狭守が領せしこと村民山口氏の文書に見えたり。
武御名方、誉田別等を祭る。
口碑に貞観十二年誉田別命を祭り、八幡神社と称し、其後貞治二年武御名方命を并祀して、単に諏訪大明神と称し来れりと。
慶長六年二月社殿造雲の棟札あり、札に大檀那大久保重兵衞、小且那山口若狭守の記あり。
寛永十年三月十五日旧神宮高野越後守常近京都吉田殿より神宮免許状与へらる。
字坂下にあり、新義真言宗西京仁和寺末、慶応二年十一月十三日火炎に罹り、堂閣を失ひ古記の徴すべきなし。
万寿元年創立の事所蔵大般若経の末に記されたれども、経は天正十八年小田原落城の時、北条の臣杉田左馬輔当時へ奉納せしものなりと云ふ。