名細村
総説
現状
名細(なぐわし)村は川越の西方一里の処に位し、東は入間川を以て田面沢、山田二村に境し、北、西、南は夫々三芳野、鶴ヶ島、霞ヶ関諸村に連れり。
小畔川及び之に並ベる一小流は西南より東北に村内を貫き、入間川及二三の泉地は数条の用水を村内に走らしむ。
土地西方に高く、東方に低し。
然れども入間小畔二川の中間は稍々高き処あり。
土壌河辺の低地は壌土西方の高地は軽粘質壌土なるに似たり。
之を以て高地は多く森林にして、低地は殆ど水田たり。
陸田は此双方に跨り段別少からず。
米麦の外織物、糸繭の産あり。
果実には柿を出すこと多し。
川越より二個の街道村内に来り、一は北部を走て勝呂村より比企郡高坂に出て、一は村の東方に於て坂戸道越生道の二に分れたり。
三街道は何れも馬車の往来を見る。
鯨井、上戸、小堤、下小坂、平塚、平塚新田、天沼新田、吉田、下広谷の九大字より成り、人口三千九百九、戸数六百十一あり。
沿革
上戸は一説に河越の旧地と称す。
其証左と覚しきもの数条あり。
然れども之を以て未だ十分なる断案を下し得たりと云ふベからず。
但、日枝神、常楽寺等あり、又城砦館趾の遺地を見る。
上戸より吉田の辺、乃至下小坂平塚の辺、古墳比較的に多きが如し。
鯨井は元犬竹にして、東方に村邑あり、後今の所に移る。
吉田、下小坂等何れも甚だ古からず、甚だ新しからざる邑落なり。
但平塚、天沼両新田のみ正保以後の新開也。
下広谷には土居の跡四五個処、未だ何人の住せしものなるやを知らずと雖、鎌倉の頃広谷五郎あり。
又北方には或は三芳野村青木を根拠とせる青木氏も移り住せしものならんか。
小田原役帳には百四十二貫五百六十四文、犬竹鯨井卯検地辻幻庵御知行、二十貫三百文川越三十三郷上戸乙卯検地新田又七郎、六十二貫六百六十一文下小坂卯検地辻松田筑前守、富島彦左衛門二十九貫五百二十五文小堤卯検地辻と記されたり。
江戸時代の所属は時代により処により釆地、支配地などもありしかど、大体に於て川越領にして、松平大和守前橋に移るに及びては前橋領となり、明治二年前橋藩、四年前橋県、次で入間県(四大区一小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄(高麗郡)十七年鯨井村外八村連合となり、二十二年名細村となる。
名細は即ち三芳野に対する枕詞を採りしものならん。
二十九年高麗郡を廃し、為に入間郡に属す。
鯨井は村の中央より東部に亘る大なる村落にして川越坂戸、川越越生両街道は村内に於て分れ、人馬の往来少からず、表方、後方、有泉、宿、天王及犬竹の六小字に分れ、戸数百四十、古、久次郎なるものの草創なるに由て久次郎居(くじらゐ)と称するに至れりと説くものあれど、真偽を保すべからず。
村の東方犬竹は古は一区の小村にて、延宝の頃までは、犬竹郷などと記したる証跡あり。
然るに洪水及交通の関係は因を為したると覚しくて、其後漸次犬竹の住民は鯨井の方へ移るに至り、遂に併せられて犬竹は鯨井中の一字たるに至れり。
現今犬竹の人家十五六戸のみ。
鯨井に存せる寺院人家などにして、犬竹より移り来れることの確実なる伝説を有するもの頗る多し。
川越越生道の北約二三町に位し、犬竹の鎮守也。
創立不詳。
末社に稲荷あり、樹木稍々大なるもの若干あり。
春日神社の北、一町許りにして廃堂あり。
傍に墓石立てり。
是れ宝勝寺にして、犬竹織部正則久(今の勢〆氏)の菩提寺也。
開山不外壽賢、元和三年の示寂也。
宝勝寺の西に連りしが如く、其地は今は田となり、又人家となれり。
其屋敷鎮守の祠跡、今も田間に存す。
今鯨井村後方に存する長福寺は元犬竹の西南方、今の寺田と称する地にありと覚しく、其辺の水田今も往今にして板碑を発見することありといふ。
元入間川辺の堤上にありしものを、一度天王に移し、後上戸日技神社に合せり。
今は上戸村日枝神社境内に移せり。
宿にあり。
元は浅間社と共に天王の地にありしが、其後此処に移し、而して今は日枝社に合して、拝殿を残すのみ。
宿にあり。
八坂神社拝殿前に位す。
傍に大なる柊木(ひいらぎ)あり。
其樹下に稲荷の祠を設く。
街道より、少しく北に入りて門あり、之を吉詳山長福寺と云ふ。
曹洞宗龍ヶ谷龍穏寺末にして、其昔犬竹の地にあり、文明初年の頃沢文書光和尚草庵を設け、次で雲崗俊徳禅師伊勢より来て、修業に力をつくし、遂に一寺となし、自から其開山となりて、永正二年(或は延徳二年とも云ふ)本山に転住し其第五世となり、永正十三年五月十五日を以て示寂せり。
二代目三代目の頃寺勢盛大にして、約十個の末寺あり、宝勝寺、青林寺等は其中にあり。
後天文の頃火災にかゝりしが、永禄年中駿河国蒲原城主北条源庵の息新三郎綱重の臣鎮目鹿之介政安、戦死して其子下総守安経、鯨井に来り、主及父の菩提の為め、此寺を再興し遂に犬竹より移して今の地に置けりといふ。
其後明治十一年火災あり表門を残して他は皆焼失せり。
今の寺堂は其後に立てし所たり。
其他愛宕社、第六天社、神明社は何れも上戸日枝神社に合祀し、若くは其境内に移し、円福寺(真言宗慶長頃の創立大智寺末)、薬師寺(真言宗、大智寺末)、観音寺等は其跡を知らず。
独り青林寺(元和年代の創立、長福寺末)は村の北方に其堂を残して久しく雨露を冒しりゝあり。
又右薬王寺のありし地方と覚しき辺には、鉄屑出ること多く、恐くは鍛冶師の住地たりしならん。
(其屋敷跡は西原にありと云ふ)児ヶ淵、八幡橋の伝説は今掲げず。
上戸(うわど)は鯨井村の南に連り、東西七町、南北五町、人家約四十戸あり。
古「上八戸」と書せしと伝へらる。
経塚は京塚とも云ひ高八九尺字地蔵堂の南方にあり、伝説に曰く、源義経の妻京姫なる者夫を慕ひしが死して此処に葬ると。
蓋し川越氏は義経の縁家也。
塚は尚存せり、之を堀らんとすれば直に病を発すと云ふ。
村の西方にあり。
越生街道に背を合せたり。
正面は社道十町に近く、樹木両側に生ひたり。
社は貞観年中の創立にして、寛元元年北条時頼再営あり、文応の頃平経重之を崇敬せりと云ふ。
日枝社の傍に愛宕、御嶽以下十余の小社あり。
日枝には、第六天、神明、首頭三社を合祀せり。
元上戸鯨井的場三村の鎮守にして、樹木欝蒼其西及北の如きは密林深叢なりしが、今は開墾して、殆ど古木老樹の影を留めず。
然れども究ひべきもの尚少からず。
日枝社の神職は上戸氏と称し、社の南方にあり。
即ち昔の大広院にして、古は宝蔵院、大広院相並んて、別当を務めたりとの伝説あれども、宝蔵院の事定かならず、又上戸氏も旧家と称すれども五代以前火災にかゝりて、古書の徴すべきなし。
又此辺塚少からず。
社の華表前土手の端の円塚は恐らく古墳なるベく、之に続て其前人家のある処にも塚あり。
此の塚に関して虚無僧の殺害物語伝へらる。
山王原にあり。
即ち日枝社の境内なり、明治維新の後境内八百三坪の外段別三町四段三畝三十一歩官林となる。
其頃堀跡及土手跡等ありて古城の様あり。
古木繁茂せり。
大導寺駿河守は其墓碑及霊牌を常楽寺に存し、川越城主酒井雅楽頭は文禄元年上戸より今の川越へ移れりとの伝あり。
此城蹟は川越城と多少の関係を存するに似たり。
川越山と号し、時宗也。
開山は遊行三代中政智徳上人にして、元応二年七月朔日示寂也。
中興開基大導寺駿河守(松雲院殿江月常静居士、天正十八年七月十九日卒)今も其霊牌及墓を存す。
墓石は再建と覚しけれども、霊牌は当時の制に適へるが如し。
又板碑甚が多し。
境内垂梅の大なるものあり。
楼門、裏門の風趣味ふべし。
寺の西方に高五六尺、長一町にも及べる土居の跡あり。
思ふに寺の西隣館蹟にして、土居は常楽寺をも包みしものならん。
平塚は鯨井の東北に位し、東西五六町、南北十町に満たず。
人家五六十戸あり。
村の西南にあり。
其傍に三四の小社を連ぬ。
天神社と同地域にあり。
元梅香山と称し、新義真言宗、石井村大智寺末なりしが今は名細村北部の小学校となれり。
平塚新田は平塚の北部に当り、人家十戸に足らず。
正保元禄の間に於て、山田村網代の百姓又左衛門なるもの此地を開墾せりと云ふ。
村の南方にあり。
平塚及本村の鎮守也、木立繁し。
下小坂(シモオサカ)は鯨井の北、平塚の西に連り、東西十町、南北五六町、民家八九十、古勝呂郷の地たり。
村の北方にあり。
二本の大樹天を掩ひ、殆ど遠方より眺ひれば森林の観あり。
社は村の鎮守なり。
南方にあり。
薬樹山瑠璃光院と称し、新義真言宗大智寺末、法流開山俊乗寛永五年七月七日寂也。
又中興開山俊意寛永十三年正月廿九日寂也。
墓石は田中姓の古石塔数基あり。
境内に竹林あり。
小門あり、宝筐塔あり。
薬師堂あり。
小堤(コヅツミ)は鯨井の西北に当り、坂戸街道の北側に人家多し。
東西九町、南北十町、民家約四十、 此地元三芳野郷とも称し、或は勝呂郷とも称す。
風土記によれば、此地或は、上小坂村なりしが如し。
然るを寛永の頃村の南鯨井の境を流るる小畔川の縁辺に堤を築きし故小堤と改めしならんといふ。
思ふに此村の東北に中下小塚あれど、上小坂なし。
此説恐くは然るべし。
小畔川に面する高台也。
村民或は古戦場とも云ふ。
明かならず。
陣場にあり、末社三。
八幡社の丘下にあり、今小学校となる。
泉池あり弁天祠を設く、又薬師堂あり。
大智寺末、里正長兵衛開基といふ。
下広谷は村の西北隅に位し、東西二十町、南北之に適ふ。
民家七八十、 此村元上広谷(今鶴ヶ島に属す)と合して一村なりしを、慶安元年上下に分村せりと云ふ。
北隅にあり、神明社と合祀せりと云ふ。
中央にあり。
広林山と号し、大智寺に属す、昔は寺観も盛大にして、門前を長松寺町と称したりと伝へらる。
今は廃寺となり僅に荒廃せる一小堂を存するのみ。
堂の後方より土居の跡数十間、西方に向て走り、又北方に続けり。
思ふに古は必ず長方形に続きしなるべし、但何人の居なるやを知らず。
然れども寺は豪族の消滅若しくは移転後恐らく建立せられたるものと覚し。
北部にあり、施無畏山と号し、大智寺末、其境内にも亦構堀あり。
川越高坂街道の北一町許りに在て、最も完全に土居の跡を在す。
其高六七尺、東北は二重堀也。
東西六十間位、南北百間もあらん。
中央に杉樹一本あり。
近傍の人家に就て之を尋ねるに青木氏の住せし処ならんと云ふ。
青木氏本拠は三芳野村青木にあり。
跡の東隣に住する新井氏?は或は其後なりと云ふ。
街道よい南すること、三四町、高台を下て、水田地に出んとする処、又土居あり。
形跡十分に知り難しと雖、約三四十間以上も続きたり。
抑も館跡にや。
抑も一時の砦跡にや。
吉田は村の西南にあり、東西二十町、南北十余町、人家七十、
村の東方にあり。
杉樹多し。
社は塚上にあり。
東南部にあり、境内広濶、杉樹多し。
社の傍に神明、稲荷、諏訪等の社あり。
今は堂及庫裡を存するのみ。
無量山と号し、開山超巖守宗寛永十年寂す。
吉田山と号し、開山観長天正十一年寂す。
今は廃寺となれり。
天沼新田は村の西隅に位し、東西十町、南北五六町、人家四十許り、正保慶安の頃上広谷村の民家で開墾せし所なれど、天沼新田と称せし故を詳にせず。
杉の老木あり。
其後方に寮あり。
小名に堀向、堀内あり。
其堀内は実査を逸したり。