山田村
総説
現状
山田村は郡の東北部の一村にして、入間川を隔てゝ北は比企郡伊草村に、
西は名細村に対し、
東は芳野村、
南は川越町及田面沢村に連る、
川越松山街道、川越桶川街道、川越小川街道、川越越生街道は村内を走れり。
土地平坦にして、水田多し、入間川より数条の用水を引く。
土質は壌土にして、米麦菽等を播種するに適し、堤防外は礫質を帯びて桑樹を植ゆべし、養蚕、養鶏、機械等頻りに行はれ、米、麦、大豆、繭糸等の産あり、
上寺山、
寺山、
山田、
福田、
府川、
石田の六大字より成り、
戸数四百十四、人口三千七。
四個の街道には何れも馬車を通ず。
沿革
山田村地方は其開拓の発端を少くとも鎌倉時代に置くべきものゝ如し。
府川八幡は由緒深き神社なるべし。
其後応永の頃に至て宿粒の地が越生氏所領の一なりしと法恩寺年譜録に見えたり。
同書応永十三年越生左衛門尉憲忠以注進状寄附文に曰く「吾那安芸守光泰申。
武蔵国河越庄宿料土内越生八郎入道跡。
同国同郷内武新兵衛入道跡。
云々」と。
宿料は宿粒にして、河越庄と唱へしを知る。
天文永禄の頃に至ては此辺大抵後北条氏麾下の知行地となりしと役帳に見ゆ。
大導寺知行二百十一貫百十二文河越三十三郷上寺山。
関兵部丞卅八貫文河越三十三郷宿立、元山中孫七郎知行。
川尻某、四十六貫七百九十三文、河越三十三郷福田、富島某、永九十四貫文、石田、即ち是也。
上寺山には別に寺山佐渡守宗友居住の説あれど、詳ならず。
天正文禄以降は荘丙組二十二村の組合村に入り、終始川越領として明治に至り、二年川越藩となり、四年川越県、次て入間県(一大区四小区府川石田は五小区)六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年志垂外八村の連合となる(上寺山は小室連合)当時は上中下寺山、宿粒、志垂、網代、向小久保、福田、府川、高畑、石田の十一ヶ村なりしが、十八年高畑を府川に合し、二十二年十村を以て山田村を編成して之を十大字となし、更に四十一年十一月耕地整理の際、中下寺山を合して、寺山と名け、網代、宿粒、向小久保、志垂を合して山田と名け、全村此に於て六大字となれり。
上寺山は村の西南隅に当り、川越町を去る十五六町也。
戸数六十、五小区に分つ。
上宿中宿下宿横宿新井是也。
村の北部にありて入間川の堤に接す。
境内広く、雑木大に繁茂せり。
素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命を祭る。
天平勝宝年中に社祠を建てたりと伝ふ。
思ふに此較的古社ならん。
八坂社、稲荷姥神祠等の末社あり。
今は指定村社也。
或は八咫神社を以て延喜式神名帳に所謂国謂地祇社に当てんとするものあり。
可なる所以を知らず。
村の中央に位し、上寺山と号し、新義真言宗勝呂村大智寺の門徒也。
村の南方にあり。
村の西方、越生街道の堤にあたる所にあり。
墓地に文明十〇年の古碑あり。
寺山は上寺山の北に連り、戸数六十ばかり。
旧下寺山にあり。
新義真言宗にして、伊草村金性院末八幡山延命寺と云ふ。
開山を伝へず。
中興開山宥覚、元文四年九月示寂せりと云ふ。
境内に如来堂あり。
今住僧なし。
門前に応永年代の古碑四五と至徳年代古碑一とあり。
旧中寺山にありしも今存せず。
旧下寺山にあり。
山田は旧制に従て志垂、網代、向小久保、宿粒を其小字とす。
地域大也、人家百三四十戸。
村役場及小学校は志垂にあり。
網代にあり。
古伝説に曰く。
往昔本村の人岩沢太郎左衛門なるもの比叡山延暦寺に鎮坐せる、日吉大権現を分祀し、旧下寺山村地内五段十畝歩を社地とし、修験教学院を別当とす。
文禄二年癸巳三月十五日再び社殿を造営したりしが、此地たる人家を去る約十町余、不便少がらざるを以て安政四年丁巳三月有志者教学院栄覚と議り、同院地内に遙拝所を創立す。
同六年己未七月洪水氾濫し、
寺山堤塘破壊し、
其水害全村に及び、本社の旧記亦悉流已に帰せり。
明治元年戊辰九月二十八日教務伝達所を以て更に日吉神社と改称し、尋で別当復飾し、社掌となる。
三十二年己亥八月字蔦木町に地を購ひ、四十三年一月十四日
福田村社赤城神社、宿粒八幡社、向小久保八幡社を網代日枝神社へ合祀し、村社となし。
社名を赤城神社と改めたり。
志垂にあり役場の南、街道の傍にあり。
天台宗仙波中院に属し、九品山極楽寺と云ふ。
歴代記鎌の中に寛永八年秀海と記せしものありしと云ふ。
宿粒にあり。
時宗にして、天王山清流院と号す。
開山は他阿真教にして、元応元年示寂なりと云ふ。
向小久保は川越に最も近く、川越町小久保より分郷せる処なり。
正保の改には載せず。
元禄の改に至て始てあらはれたれば、其間に分村せしものなるべし。
今は大字山田の一小字なり。
其八幡社は雀森八幡と云ひ、元小久保石原町辺の田圃中にありしを移せるなりと云。
今は網代村赤城社へ合す。
石田は村の東部に位し、川越の北十三四町、東西五町、南北八町ばかり。
民戸五十余。
祭神は元仏体なりき。
風土記に所謂祭神は詳ならず。
神体は秘して人の見るとを許さず。
本地仏阿陀薬師の二躯を安ず。
古は府川村の八幡を鎮守とせしが、何の頃にや、当社を勧請して今は此四村の鎮守とせりとある是也。
村社にして、石田の鎮守也。
府川は石田の北に連る。
天正五年丁已五月二十六日板部紅雪斉の古文書に隣村菅間村竹ノ谷源七郎、谷中村大野縫殿助へ名宛府川之郷御検地御書出と記し、同年検地行はれしを徴するに足る。
土人の伝へし所によれば、志垂宿粒石田同本郷谷中網代の六村は古府川郷と呼び、其頃は今の府川を上府川又は府川本郷と呼べりと云ふ。
但此説他に証を見ず。
東西三町、南北十四町、人戸五十。
村の中央、街道の東に連れり。
源三位頼政の奉紀せし処なりと云ふ。
思ふに其創立鎌倉時代の中にあり。
本社に円形の鉄燈籠一基あり、周円二尺三寸五分。
表面に源三位頼政奉之、裏面に承安元年辛卯と記されたり。
陽刻也。
宝物として保存せらる。
其他白木椀七個あり。
文明三年辛卯三月神主原市太夫舎宅火災にかゝりし時、記録等灰燼に帰せりと云ふ。
其後慶安元年松平伊豆守田地寄進あり。
此等の事志垂村検地帳及府川村旧記等に詳也。
更に風土記によれば、当時の社伝に康永三年再興ありしとを記し、土人の説に古は志垂、宿粒、網代、
谷中、
石田、
石田本郷、
菅間、
向小久保、
比企郡角泉の十ヶ村の鎮守なりしも、
其後府川及志垂の鎮守たるのみ。
と記せり。
明治五年村社となる。
三十四年一月村内無格社白山社、第六天社を合祀せり。
風土記によれば弥陀の書像二幅あり。
一は源満仲一は恵心僧都の書なりと称す。
秘して見せず。
又大永七年小沢藤右衛門維宗の記せる縁起ありと云ふ。
福田は村の西北部に当り、入間川に沿ひ、其屈曲点に衝れり。
東西六町、南北七町、人戸六十余。
網代村赤城社へ合す。
天台宗仙波中院の門徒、啓明山東雲寺と号す。
宝林寺廃寺となりしを以て、其本尊大日如来を此寺に置く。
参詣者多し。
此如来は昔時此辺の土中より得し所なりと云ふ。
長生寺の如きは夙に廃寺となれり。