小山
小山は村の西南南隅に位す。戸数三十。
入西神社
村の西北、竹内に近し。元氷川神社にして、社殿二ヶ所建、上宮、下宮ありしか、明治四十一二年の頃、善能寺の天神社、堀込の三島神社、新堀の金山神社、竹内の稲荷神社、長岡の愛宕神社外無格社若干等を合祀し、之を入西神社と名けたり。社地の樹林蓊鬱たり。境内広し、社の東に接して龍光寺あり。今は無住也。
三福寺
坂戸越生街道の北に入ること、約一町、瑠璃光山と号す。浄土宗、川越蓮馨寺末、古より庵若くは堂なりしを、元禄年中一寺となせりと云ふ。
入西(にっさい)村は郡の北部に位せる一村にして、北は越辺川を隔てゝ此企郡に境し、東は高麗川を以て坂戸町を望み、南は大家村、西は川角村に接す。県道は坂戸町より来り、村内に於て二に分れ、一は比企郡今宿村に向ひ、一は越生町に向ふ。越生町を去る二里、川越町を去る三里半也。
土地西方に稍々高台地を見るの外、一般に低平にして、全村殆ど水田也。土質も壌士也。越辺高麗両川の外、葛川は川角より来り、村内を貫流せり。小流なりと雖、灌漑の利少なからず。農の外、養蚕、機織も行はれ(西部高台地に多し)、米に次で繭糸、絹織を産す。又藁筵、蓙は此村付近の特産也。人口三千百九十七、戸数五百四十五。十七大字あり。小山、竹ノ内、長岡、北浅羽、今西、金田、沢木、戸口、新ヶ谷、東和田、中里、塚崎、新堀、北峰、堀込、善能寺、北大塚是也。
入西村地方は其開発既に古く、王朝以来大抵継続して、人居村邑たりしが如し。大塚に名の如き大なる古墳あり。塚崎にも古墳あり。善能寺及竹田の西方にも古墳あり、一歩川角村地内に入らば、此処は即有名なる塚原也。加之、村内より往々石剣の類を出すと云ふ。
鎌倉街道の一枝道は東和田の東部を通ぜしと伝へ、新ヶ谷より来て比企郡高坂村田木に出でしと云ふ。北浅羽の名は古く、法恩寺年譜録にも見えて、康永三年甲申以建武二年二月十三日券北浅羽松楠寄附三十貫俸銭田云々」とあり。其の満願寺は今は頗る廃頽したれども、史上頗る注目すべく、曽て足利尊氏の寄進状ありしと称せられ、又現に徳治二年と記せる浅羽氏に関する板碑あり。金田も其名古く、法恩寺年譜録、応永四年五月三日管領氏満が出せし文書に、「武蔵国入西郡浅羽郷内金田在家一宇田畑云々」と記したり。若し夫れ北条役帳に記されたるものに至ては、
布施弾正左衛門十九貫四百七十一文河越三十三郷善能寺分太田十郎兵衛廿七貫七百七十九文堀籠
酒井中務丞十四貫二百八十一文新堀
岡上主水助十一貫二百三十八文入西郡沢木郷、
左衛門太夫十六貫四百三十四文入西郡竹内(及高麗郡塩谷分)
原上総介六貫三百入十七文入西長岡
平山長寿十六貫二百二十八文入西小山
を数ふべし。小山の旧家平田氏の祖肥前守と称し、北条氏照の臣平山伊賀守に仕へ、氏照の文書を蔵したりき。之に依る時は伊賀守は恐らく長寿と同人若くは父子たらん。更に戸口には天正十二年北条氏よりの命令書を蔵し、塚崎には上田上野介の領地なりとの伝あり。又天正の頃中里より加藤豊前と称するもの来て開墾せりとの伝もあり、北浅羽の高橋氏本宗は小田原及八王子落城の後此地に来れりと云ひ、続て山根村大谷木氏所蔵文書によれば毛呂太郎長吉北条氏亡滅の後、徳川氏に召出され、文禄五年正月新堀の内にて三百石の地を与へられ、後征韓役、家康に従ひ、大坂の役にも出陣したりしが、負傷して歩行不自由となるに及び、知行を返して松山に遁世せることを記せり。
江戸時代の所属、塚崎は川越領たりしことあり、又北峯外一二村は曽て清水家領となりしことありしも久しからず。其他全村采地若くは支配地として明治に至れり。但長岡、沢木、塚崎、北峯は維新前古河領となる。采地支配地は元年知県事に属し、二年品川県、韮山県となり、古河領は二年古河藩、四年古河県となり、同年全村入間県に入る。六年熊ヶ谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に隷し、十七年十七村連合、二十二年入西村を成す。
小山は村の西南南隅に位す。戸数三十。
村の西北、竹内に近し。元氷川神社にして、社殿二ヶ所建、上宮、下宮ありしか、明治四十一二年の頃、善能寺の天神社、堀込の三島神社、新堀の金山神社、竹内の稲荷神社、長岡の愛宕神社外無格社若干等を合祀し、之を入西神社と名けたり。社地の樹林蓊鬱たり。境内広し、社の東に接して龍光寺あり。今は無住也。
坂戸越生街道の北に入ること、約一町、瑠璃光山と号す。浄土宗、川越蓮馨寺末、古より庵若くは堂なりしを、元禄年中一寺となせりと云ふ。
入西神社へ合す。
坂戸越生街道に面し、約一丈許の塚上にあり。近隣に名を知られたる神社にして、今は入西神社へ合祀せられたれども尚賽客多しと云ふ。其金比羅縁起も亦著名にして、寛政年中に成り風土記にも屡々引用せられたれど、其記す所、稍々雑然たるの嫌あり。且其記事に稍年代の誤謬あるが如し。著者は故障ありて未だ実物に接せず。今写によりて批判す。
大龍山と号し、曹洞宗大家村田和目恵源寺末也。寺名は村名に及び、其古刹たるを知るに足ると雖、開創年代明ならず。或は曰く、古は臨済宗に属し、文和年中広沢善応なるもの建立し、依て善応寺と号せしが、承応二年に至り、曹洞となり、善能寺と改むと。末だ遽に可なりとすべからず。或は曰く開山玉芳菊和尚天正五年入月十日寂、其頃寺は臨済寺なりしが、今も一寺の隣地に住する広沢氏の祖中興して曹洞の寺院とす。中興開山、中英性和尚は実に広沢氏の二男なりきと。要するに変遷の体裁は略ぼ斯の如かりしものならん。彼の金比羅縁起に記す所は必ず、何等かの暗示を与ふる者ならんも、其証拠村料大抵消失、軽々しく推定を下し得べきにあらず。墓地には嘉元三年乙巳十二月十二日敬白、明徳二二年戊已十月廿七日妙好禅尼善根(毎日晨朝入諸定等の句を刻す)嘉吉三年、建武三年丙子八月日敬自右志者為明法禅尼逆修離六道旧域致賽土之台、南無阿弥陀仏永和二年癸巳正月九日鏡円等の稍々大なる板碑あり。又寺の南、小池の傍天神社拝殿の下に、板碑四五十枚あり。近頃池中より出せしものなりと云ふ。村民之を「機石(はたいし)」と称し、崇敬するもの多しと云ふ。善能寺今は門なく、本堂と庫裡あるのみ。村民之を上の寺とも云へりとぞ、又寺の東方路傍に大板碑あり。
都婆 右志趣者為逆修追善之衆並同心 (上欠)心道文和二 者心 合力之人乃至法界現当成就也
と記せり。武蔵野話には苦林(川角村)と入間川村との間は行程三里も隔てぬ。此地の背を流るる越辺川に沿ひて畑あり。其中に大木の一枯松あり側に古碑ありとして、此碑文を出せり。
下の寺と称せしものにして、普照山と号し、満開和尚一代を以て廃寺となれりと云ふ。但十三四年前までは寺形を存したりきと云ふ。
入西神社へ合す。
維新の勤王家竹内啓氏の碑也。社にして、尊王の為に奔走し、王政維新の盛儀に先り数月、空しく常総の野に倒れし、勤王愛国の士の面目を見るべし。
入西神社へ合祀せり。
薬王山と号し、川越中院末、無住
場所に就て実検せずと雖も、恐らくは搆堀の跡あらん。
古社にして、浅羽小太夫が鶴岡八幡を勧請したるものなりと云ふ恐らく然らん。明治四十一二年、東和田の八幡社、沢木の□□社、金田の神明社、今西の十二天社等を合祀したれども、名称は依然八幡神社と称す。社殿壮麗也。
真言宗にして、越生法恩寺末なり。天徳山地蔵院と称す。伝ふる所によれば此寺実に浅羽氏の菩提寺なりと。永禄の頃兵火に罹り一たび廃滅に帰したりしを、後俊誡中奥し、元和元年寂す。其後寛文十年浅羽三右衛門と称するものが記せし当寺及八幡社由来記、風土記に引用せらる。曰く
昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて関東へ下向す、是を有道貫主遠峰と号す、其子を武蔵守惟行と云、延久元年七月七日卒す、其庶流浅羽小太夫行成と云ふ者右大将頼朝の時功ありて、両浅羽、長岡、小見野、粟生田、などの地を賜はる、また頼朝の命によりて、鶴岡正八幡を浅羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は頼朝の供奉して奥州へ下り戦功ありしものなり。此人当寺を再建す。当寺昔は真言律宗なり。後改て真言宗となる。其後建武年中尊氏田地寄附の状あり。其文に曰
自元弘到建武戦死亡卒之幽霊数万也不吊者不可有囚茲浅羽之庄之中水田十町畠田十町永代寄進之香花灯明誦経等聊懈怠不可有者也。
建武三年七月十三日 源尊氏
其後永享年中当所の主浅羽下野守、同左衛門太央鎌倉にて戦死し、其子孫久しく浪流して、遥の後永禄七年当所に来り、暫く居住せしかど、又子細ありて出て、上野国佐野庄の内免鳥城に住せり。大旦越を失しにより、当寺も次第に衰へ行きしに、天正十八年、小田原陣の時、敵の軍兵乱妨して、堂宇を破却し、空地となし、纔に草庵一宇と小社一宇とを残せり。此後北南両浅羽の浅羽が子孫も愈々衰へて、氏神菩提寺をも知らざるに至る。
と。尊氏の文書は真にあらざるべし。今無しと。寺は甚だ衰へたり。見るベきものは浅羽氏の大板碑のみ。高さ六尺、幅二尺七八寸もあらん。行体にて
右為曩祖浅羽小太夫有道行成朝臣其子孫等就彼故墳
徳治二丁□□月日七代末孫□□□□□□
奉造也状願菩提樹茂近藤後
昆本覚月朗遠照幽冥也
と記せり。文字頗る読み易からず。或は多小の誤写あらん。
八幡神社に合す。
八幡神社へ合す。
風土記によれば、東の方戸口村の境にあり。凡そ六畝ばかりの地にて、土人は金子十郎の邸蹟なりと云ひ伝ふれど、証跡明ならずと。今此の如き処を知らず。
寺の事蹟不明。
元は天神社と称し、平天神と称する処より、寛永年中此地に移し、村の鎮守とせしが、明治四十一二年新ヶ谷の三島社、中里の大宮社、塚崎の六所権現社等を合祀し、之を東入西神社と称せり。社殿見るべし。傍に老樹あり。
東入西神社に続きて其西にあり。寛永年代の創立也。
龍福寺の西にあり。神体は龍なりと称すれど、社名の発音によりて判する時は、石神(じゃくし)の如くにも解せらる。
東入西神社に合す。
中里は村の東部にあり。戸数三十。
東入西神社へ合す。社殿尚存す。
村の東にあり。高三尺許りとなれり。榎あり。
塚崎は村の略中央部にあり。戸数四十。
東入西神社に合す。
新堀も村の中央に位す。戸数六十。
入西神社へ合す。
伝ふる所によれば、天正十二年順栄、村内の廃寺東光寺跡の薬師堂と及び釈迦堂と合せて一寺とせりと伝ふ。寺地は岡田治郎と云ふものの陣屋跡なりと云ふ。今は役場に使用せらる。
堀込は村の中央西部にあり、戸数三十。
入西神社へ合す。
法恩寺末、文禄慶長の頃の開山也。寺堂のみ今も存す。
小山の薬師へ合せり。
村の西にあり。地頭多田所左衛門の陣屋跡なりと云ふ。然れども今明ならず。
北峯は村の南部にあり。
北大塚は村の最南端にあり。戸数六十。
社地は高台にして、大なる古墳にかゝれり。大塚の名或は此辺に原づきしやも計られず。台下は古高麗川の流域なりしと云ふ。奇木あり。周囲一丈余。社の傍に神職木下氏ありと云ふ。
普光山と号し、曹洞宗也。関山整重、天正八年寂す。近年火災にかゝり、今は仮堂を設く、寺地は殆ど成願寺に隣れり。
風土記には村の西北にありて、里人源庵屋敷と称すれば、或は北条源庵(氏綱の弟長綱)、若くは土地の地頭本郷氏の祖に源庵なるものありて、此処に住せしならんかと推測せり。然れども現今は里人之を知らざるが如し。