大家村
総説
現状
大家村は郡の西北部に位し、高麗川に沿ひて東北より、西南に続ける狭長の一村にして、入西川角毛呂山根四村其西北にあり、坂戸鶴ヶ島高麗川三村其東南にあり。川越越生街道村の北部を貫けり。
地勢西隅には少しく丘陵あれど、其他は一帯高麗川の流域にして、土地低平、地味肥え水田に富む。雑木林地若干あり。米の産あり、柿も著し。森戸、成願寺、四日市場、萱方、厚川、多和目、欠ノ上の七大字より成り、戸数五百三、人口三千百八十一。
沿革
萱方城趾は今や畑となりて全く古の姿を留めずと雖、其地坂戸町浅羽に近く、即ち浅羽氏の拠りし処なりと云ふ。鎌倉街道は川角村市場より来り、高麗川を渡りて森戸、四日市場両地の間を走り町屋を経て、高萩村駒寺野新田に出づ。昔時は道幅六間、寺堂宿駅の跡往々にして尚徴すべきものあり。成願寺は鎌倉時代の末、同名の寺院の成りしに因て村名となり、高麗川は元、今の河道より少しく西を流れて、欠ノ上は即ち成願寺の小字欠ノ下と相対して断崖上及断崖下の昔時の地勢を語れるもの也。多和目西南部高麗川に瀕する丘上にも一小城址あり。何人の拠りし処なるやを明にせずと雖、地形優勝、眺望遠大也。
小田原の頃には、三十貫文河越森戸久米玄蕃、三貫二百三十五貫文入西卯検地大在家布施弾正左衛門、百四十六貫百三十六文河越三十三郷多波目北条佐衛門佐、八貫七百文カケノ上入西酒井左衛門等の知行、役帳に見ゆ。江戸時代には支配地、采地、川越領、若くは古河領にして、其大部は支配地也。故に明治元年知県事、二年品川県、次で韮山県、四年入間県(五大区四小区)、六年熊谷県、九年埼玉県に属し、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年森戸連合、二十二年大家村を成す。
成願寺は村の最北部に位し、入西村小山及北大塚と甚だ接近せり。其小字に欠ノ下あり。又毛呂分は毛呂氏の領せし地なるが如く、小塚は勿論大塚に対するの名なるべし。
若台にあり。曹洞宗にて多和目恵源寺末、中興は永禄元年の頃にあり。古は臨済宗にて建長寺に属する巨刹たり。円覚寺応永十七年の古文書にも浄願寺塔頭曇華庵と見ゆと云ふ。今は寺堂廃頽に傾きたるも、旧寺域の地方甚だ広く、後方に土居あり。西に稍々半町を隔てゝ、沢田氏あり。深田氏は相州より来て此村を開きし人、蓋し成願寺に対する開基の位置にあり。
欠ノ上は成願寺の南に位す。元高麗川北岸に接する懸崖の上に位せしを以て名けたり。
萱方は欠ノ上の東南に位し、高麗川を隔てたり。其城趾は即ち浅羽氏の居と称せられ、又永禄の頃小窪氏此辺十貫文を領して北条氏に属せし確証もあり。
村の北方城山と称する処にあり。今は大抵畑となれり。東西八十五間、南北百六十間、土地の人之を城と呼べど、寧ろ館と称するを当れりとすべし。浅羽下総守が住せし処にして、北条氏亡滅の時下総守小田原にあり。城も其後廃墟とれりと云ふ。
厚川は萱方に接して其東方に位す。一本松と称する処あり。応永十七年鎌倉円覚寺古文書に厚川末松名と見ゆるは此一本松に当れるや否や。
宮方にあり。明治四十年元の白髭神社々地に諏訪、白山、(以上厚川)熊野(欠ノ上)若宮稲荷(成願寺)の諸社を合したるものなり。
清水にあり。創立不詳、明和年代大智寺に属す。比較的古寺なるが如し。
森戸は萱方の南に位し、坂戸平沢間の街道に沿ふて人家一小宿駅の観をなせり。古は繁昌したりと覚ゆ。鎌倉街道は四日市場との境を走れり。
宿頭にあり、元熊野神社と称し、延徳年中の再営なりとも云ふ。旧別当を大徳院と名く。川角村山本坊配下なりき近年熊野社を以て延喜式内国渭地祇社なりとするの説をなすものあり、依て社名を改めたるものゝ如し。境内樹木多く要するに古社なるに似たり。社の華表前は即ち旧鎌倉街道也。
宿にあり。村社也。
二階にあり。村社也。
鍛冶屋前にあり。村社也。
台にあり。村社也。
八幡社(鍛冶屋)、稲荷社(二階)、同上(二階)、神明社(二階)。
宿にあり。龍穏寺末也。大林山と号す。依て或は川角村大林坊を移したるものならんと謂へるものあり。寺侍によれば、慶長の頃より一小寺にして何宗たるやを明にせざりしも、寛文年間龍穏二十二世鉄心中興して曹洞宗の一寺となせりと称す。
四日市場は森戸の西に接し、古四の日に市を開きし故四日市場の名ありと云ふ。鎌倉街道は其東方を走れり。人家は現今東西に並び、江戸時代には越生及毛呂地方より川越又は新河岸地方に赴く街道に当りしものゝ如し。小字に曽て玄蕃分及鳥居戸ありき。前者は久米玄蕃の居りし処にや。久米氏後北条に属す。役帳に見之たり。後者は森戸国渭地祗社(旧熊野)の鳥居ありし処なりと云ふ。小鹿野氏は甲斐国より来れる村の旧家なりと云ふ。支流甚だ多し。
諏訪台にあり。大永四年小鹿野氏創立す。明治四十年稲荷天神八坂諸社を合す。
月芳にあり。聖天院に属す。元禄年代の再興にて、寺の起原は小鹿野氏の祖が観音堂を建立せしに始まると云ふ。
多和目は村の西南部を占む。古は多婆目に作り、役帳には多波目と記し、曽て南隣高麗川田波目を上田波目と名け、此地を下田波目と呼びたりしが、後単に田波目と唱へ、更に多和目と改む。大在家は古は一村なりしも、今は多和目の一小字となれり。
天神脇にあり。村社也。明治四十一年熊野、白山諸社を合す。
平にあり。龍穏寺に属し、其十世善庵良置(天正五年寂)の中興也。年代は永禄三年なりと云ふ。蓋し著名なる古寺にして、檀徒大家川角毛呂山根諸村の比較的旧家に多し。
岩口にあり。文禄三年開山と云ふ。
西郷にあり。延宝元年の開山にして天台宗也。然るに天正の水帳に西福院の名あれば、延宝元年は中興なりしにや。
城山にあり。山は高さ十余丈、高麗川の北岸に位し、頂上平地五段歩許、少しく当年の土居を存す。何人の拠りしやを明にせず。東方の溪を菖蒲沢と名く。
天神脇に二あり。一は天正の頃稲生四郎左衛門光正居住し、一は河村善右衛門居住せりと云ふ。