郷土及郷土観

郷土の概観

位置広表

入間郡は武蔵国の中央、埼玉県の南部に位し、西は秩父郡に境し、北は比企郡に隣り、東は北足立郡に連り、其南は即ち東京府西及北多摩郡の地なりとす。

戸口

面積三十四方里、入口二十三万二千、(三万七千戸)七町五十五箇村を包有し、郡衙を川越町に置く。

地勢

其地勢、西部に高く、東するに従て漸く降下せり。

西半部

即ち秩父山の余派は郡の西方に侵入し来りて、越生(オゴセ)町付近に於て高取(タカトリ)以下の諸山を起し、高麗村付近に於て日和田、物見、富士等の諸山を起し、飯能町付近に於て多峯主(トーノス)等の諸山を起し、群丘連阜、東へ北へ西へ南へ綿一旦断続して、丘と丘との間、数条の渓澗、名栗(ナグリ)(秩父郡より来る)高麗(同上)越(オツ)辺(上流は毛呂川、龍ヶ谷(タツタニ)川等なり)諸流を通じ、林野略ぼ開け、鶏犬の声相伝へ、以て飯能越生以東の平原に出ず。

此に於て越辺川は高麗川を北に併せ、名粟川は成木川(多摩郡に発す)霞川(同上)を南に合して、其名を入間川と改め、越辺は東し、入間は北し、両河の会する所(比企郡境也)、西南より小畔(コハデ)の一流来て之に朝す。 小畔沿岸一帯の地は、是れ旧高麗郡の平原にして、其中地味稍痩せ、軽木繁茂し、入烟往々にして稍稀薄なる処ありと雖、其他は大抵土地豊かに、耕鋤周く行はれ、田園連れるを見る。 之を郡内西半部の地勢とす。

東半部

更に其東半部を大観すれば、既に越辺川を容れたる入間川は北境を崖りで荒川に注ぎ、荒川は古谷村地内に於けるの外は、郡の東境を割して、東南、東京方面に向へり。 入間の旧河道と称せらるゝ赤間川は川越町の西より北を包て、伊佐沼に入り、同じく入間川の古道たりし古川は伊佐沼の東北方を迂余して荒川に合せり。 伊佐沼は周回里許、郡内の沼沢也。 九十(クジュウ)川之より出てゝ南に流れ、近く西方より発する仙波河岸川、遠く西南より来れる不老(トシトラズ)川を合せて、新河岸川(旧称、内川)となり、平野の間を曲折し、東南に下て南境の柳瀬(ヤナセ)川(元堺川と呼びしこともあり)と会し、後遂に荒川に赴く。

柳瀬川の上流に狭山(サヤマ)の丘陵あり。 不老川も之より発せり。 狭山の西北、霞川を隔てゝ、阿須(アズ)の丘陵あり。 大凡此等の丘陵、其大さに於て、其高さに於て、到底郡内西部諸丘の比にあらずと雖、又平地の間頭角をあらはすこと、十数丈、故に郡の東半部は南西に高くして、東北に低し。 従て水田は北及東に多く、 陸田と雑木林とは西南に於て之を見る。

地質

地質は大体に於て関東平野一般に準じたり。 其大部は洪積層地に属し、河流の沿岸、殊に北部及東部には沖積層地あり。 沖積層地は概括して壌土多きに居り、洪積層地は埴土重きをなす。 西方の丘地には礫土砂土も交はり、入間川高麗川越辺川等の河側は礫質壌土たり。 壌土は米穀に宜しく、埴土は菜蔬に宜しく、礫質壌土は桑樹に宜し、之を郡内地質の大要とす。

気候

気候も亦関東中央部地方と均しく、之を東東に比する時は温度僅かに低し。 更に細かく郡内に就て測定するも、東西南北、丘野高低の別ありとは云へ、相去ること何れも数里、殊に地貌に著しき差違あるにあらざるを以て、其等差甚だ徴なりとす。 然れども仔細に之を検する時は西部丘地の常に少しく低温なるは争ふベからず。 左に掲ぐるは例を西北部の梅園村(山地)。 中央西部の飯能町(山地より平原に出んとする処)東北部の川越町、東南部の松井村に採りたるもの也。

一個年間平均温度表(摂氏にて毎月の平均温度をあらはす)

  一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月
梅園 1.7 2.8 6.4 13.7 16.7 20.5 24.8 25.3 22.2 15.2 10.0 4.5
飯能 3.3 3.3 7.0 12.8 16.7 20.7 23.7 25.0 22.3 16.6 10.6 6.1
川越 4.7 4.8 7.7 14.7 19.2 23.0 25.0 26.6 22.4 17.5 12.0 5.9
松井 2.5 2.5 6.0 11.7 15.4 20.3 23.0 25.4 20.9 15.0 8.8 4.4

右表中松井村は意外に低温なれども付近の小手指宮寺等の諸村亦皆大同小異の数字をあらはせり。 依て暫時之を掲ぐ。

気象

雨量は概して少からず。 結霜も亦多し。 今例を飯能町南古谷村とに採りて郡の東西両部の大体を表示せん。

一個年雨量表

  一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月 合計
飯能 46.4 53.5 81.0 107.9 139.6 153.9 253.7 187.8 212.2 215.6 59.2 70.6 1581.3
南古谷 41.1 39.3 70.0 102.2 126.4 134.5 165.7 197.2 229.3 141.1 49.5 40.7 1337.4

晴曇雨雪日数表

    一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月
飯能 23 18 15 13 13 9 8 13 8 12 19 21
  2 2 3 3 4 4 6 4 4 5 3 7
  4 3 11 14 14 17 17 17 18 14 8 3
  2 5 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0
南古谷 20 19 14 11 10 7 6 9 7 13 18 22
  1 1 2 3 3 4 3 2 3 3 2 1
  5 3 10 15 16 18 20 19 19 13 9 6
  4 4 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0

風も亦頻繁にして、夏は多く西南よりし、冬は多く北よりす。 寒風は蓋し関東の一名物也。 併せて春夏の候、軽鬆なる上層の粉土、巻かれて天に伸し、飛びて人家行人を襲撃するも、亦土質自然の状態、之を然らしひるもの、是も名物の一に加ふベきにや。

南古谷村天変地災表

  一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月
結霜日数 20.7 15.6 10.0 12.2 0.2 0 0 0 0 0.3 9.8 21.2 80.0
雷雨日数 0.1 0 0.1 0.6 2.2 1.9 4.7 5.9 1.1 0.4 0.2 0 17.1
霰雹日数 0.2 0.4 0.4 0 0.2 1.1 0.1 0 0.1 0 0.1 0.1 1.8
暴風日数 11.5 11.6 11.4 5.4 4.2 1.7 0.9 1.5 1.4 2.9 6.1 6.1 68.9
地震回数 5.4 5.1 8.4 6.8 7.4 7.3 8.3 12.4 5.7 5.1 7.2 5.5 84.6

郷土の美観

平凡なる美景

入間郡の風景は蓋し其大観にある乎。 郡内の風物一を以て特に天下に誇るに足るものなし。 然れども其平凡なる個々を集めて、寄せ併せて、構成せられたる全穀は変化あり、統一あり、趣向の妙、結合の多様なる、以て郷土の美観と称するに足る。 蓋し郡内の風景は全局の大観にあり。

武蔵野の面影

武蔵野が古来関八州平野中の平野として、人口に膾炙したりしは改めて述ぶるまてもなし。 然らば我入間郡は武蔵野中の武蔵野として、古来の面彫を存せりや否や。 蓋し思ふ。 人力遂に自然を制す。 其昔曠野茫々、所謂「紫」の名所たり、所謂「尾花」の名所たりし武蔵野の面影は今に於て殆ど滅せり、然れども曽て国木田独歩によりて絶唱せられたる現在の「武蔵野の美」「武蔵野の詩趣」は敢て古に劣らざるものの如し。

所沢町付近の景

試みに所沢町の近傍、平原中の人とならば、遠村近郊、松林、菜畝相交はり、所謂「武蔵野の楢林」亦其中にあり。 更に町の南方狭山丘陵上に至れば、八国山(ハチコクヤマ)、荒幡富士鳩峯八幡等の勝地相連り、或は長杉天に冲し、或は老松地に蟠屈し、特に其高きに登れば入間多摩足立等の平野双眸の中に集まる。 而して斯の如きもの啻に狭山のみにあらざる也。 阿須の丘陵に於て亦然り。 高麗飯能付近の諸丘陵に於て亦然り。

日和町山上の大観

特に郡内第一の高丘日和田に登れば、西に秩父の諸山を仰ぎ、北東南に八州の平野を望み、飯能町入間川町や殆ど指呼の間にあり。 東北に当てかすかに煤煙の昇るは川越町にして、東南大厦の独り人目を驚かすものは所沢町の飛行船格納庫也。 若し夫れ吾野高麗川精明諸村の丘陵に至ては脚下に攅簇沓蹙して、街路の状、行人の態も或は一々之を詳にすべきものなり。 加之高麗川透遅として山下を周り、入間川遠く平原中を貫流して、其景雄大、而して精妙、眺め来り、望み去りて殆ど厭く所を知らざる也。

飯能町

殊にそれ飯能(ハンノウ)の町たる、外秩父、吾野名栗両村の関門にして、又付近数村の交易地也。 故に市街の粉壁燦として、遠望頗る壮観ならずんばあらず。 且其山紫にして、其水碧し。 或は天覧山を形容して畝傍山に似たりと言ひ、或は飯能町そのものを賞揚して京都の如しと為すもの、幾分の誇張ありと雖、言必ずしも架空妄想にあらざるを覚ゆる也。

山地の景

飯能町を出て、草鞋西に向ひ、丘側河畔の県道を進めば、其南北何れをとるも三里乃至四里にして外秩父の地に入るべし。 其間山容水色漸く奇にして、巨岩塊石応接に暇あらず。 更に道を右に屈して、山道を上下し、足一度梅園村に入らば、清流愈涓々として、瀑布あり、砿泉あり、梅園あり。

平原

更に高取の山脚を周て越生町に出て、明媚なる山容に接し東川越町に向へば、山影漸く徼かにして、田野の色漸く加はる。

川越町付近の景

高麗川と入間川とは洋々として流れ、両岸の長堤、尽る所を知らざるが如きも亦平野の一偉観ならずんばあらず。 既にして川越町の郊外に至れば、伊佐沼東にあり。 秩父山西にあり。 芙蓉峰西南に当て、雲表に聳えたり。 南は原野にして樹林の嵐気索々たり。 北は水田にして、遠霞の跡渺茫たり。 小流緩く、青草の畔間に茂れるを踏て、野趣の正に横逸せるを見る。

結論

思ふに郡内の青山緑野、天然の配列至妙なるに加へて、人為の雅致を以てす。

社寺の或は壮大にして、巍然たる、或は廃頽に垂んとして、却て古色蒼然たる、加ふるに市街の典雅なる、街道の詩趣ある、農村の素朴なる、観来れば武蔵野の風致未だ必ずしも衰へざるを覚ゆる也。 況んや四時の変化、亦頗る雪花風月の趣を添ふるに於てをや。 況んや至る所古今の隆替、人をしてそゞろ慷慨悲古の情に堪えざらしむるものあるに於てをや。

郷土に関する文芸

和歌に対する科学的見解

郡内郷土に関する文芸としては、古来和歌を以て其随一とせり。 然れども和歌なるものゝ多くは、必ずしも歌人の足、直接其地を踏て然る後に詠せし所にあらずして、伝承、摸倣、盛に行はれ、或は東国の見聞談に基き、成は実地を詠へる古歌に擬して、単簡なる或一種の形容をあらはせるもの比々皆然り。 故に其詠ふ所大概同一轍に出でゝ、然も其弊甚だしきは歌上の名所、紙上の勝地を製造するに至ることなきにしもあらざる也。

武蔵野の古歌

武蔵野は古来頗る歌人の情懐を牽きたりけん、之に関する歌枕極めて多し、然れども仔細に之を検する時は、其意味する所、殆ど五六種に限れるが如きを見る也。 古く万葉の東歌には流石、東国人の口より出てしだけ、其歌へる所、「むさしのゝ草」、「むさしのゝ小岫」、「むさしのゝ鹿」などを以てし、個々の事物を捕へて、未だ広漠たる原野と形容せしが如き例を見ず。 降て古今集には武蔵野の特産たりしと覚ゆる「紫」(紫とは今の何草なるや著者不明にて未だ之を詳にせず,但紫は信濃にも産せしが如し)に関する和歌を加へ、後選拾遺集、新古今集に至て始て、「草原のむさしの」「秋風のむさしの」、「秋草のむさしの」、「行末遠きむさしの」、等広濶なる原野の気象を歌ひたり。

後鳥羽天皇御製

逢人に 問へど かはらぬ 同し名の 幾日になりぬ 武蔵野の原(続古今集)

後京極摂政

行末は 空もひとつの 武蔵野に 草の原より 出る月影(新古今集)

久明親王

武蔵野や 入るへき 峯の遠ければ 空に久しき 秋の夜り月(続千載集)

通方

武蔵野は 月の入へき 嶺もなし 尾花か 末にかゝる 白雲(続古今集)

要するに武蔵野に関する和歌は後拾遺新古今以後に於て其数も多く、而して其大多数は、広濶、無限等を詠ひて偶々山嶺、月光、尾花等に及べるのみ。 故に半面より之を極言すれば武蔵野の古歌は概して単調平凡殆ど旧態を脱せざるものなりと雖、其中自ら我国風の特色も見えて、名歌も多く、興趣甚だ深し。

浅羽野の古歌

更に浅羽野に関しても古歌多し。 浅羽野は今の坂戸町付近の平野に当れども、信濃国等にも亦同名の平野あり。 故に必ずしも浅羽野の古歌の全部を以て郡内の文芸なりとすべからず。 勿論浅羽野の特産物は『菅』也。 菅は今日の藺ならんか。 藺今も尚坂戸付近に産す。

為藤

夕くれは 浅葉の野らの 露なから こすけ乱れて秋風を吹く。

経道

立鳥のたつみは小菅木かくれぬ雪はあさはの野辺の御狩場

三芳野里と多能武沢

三芳野里、田能武沢は伊勢物語に出でゝ、古来何人も在原業平を連想す。 然れども其事蹟茫漠、而して其地の今何れの処に当れるやを詳にせず。

みよしのゝ田のむのかりもひたふるに君の方にそよるとなくなる

我かたによるとなくなる三芳野のたのむの雁をいつか忘れん

堀兼井と迯水

堀兼井迯水の如きに至ては古来歌枕に乗りたること多きだけそれだけ、又其本来の由縁漠然たりしだけそれだけ、今日に至て稍紙上の名勝たるの威なくんばあらず。

俊成卿

武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近つきにけり

西行

くみてしる人もあらなん自づから堀兼の井の底の心を

冷泉卿

武蔵野や堀兼の井の深くのみ茂りそまさる四方の夏草

狭山と霞ヶ関

其他狭山、霞ヶ関等歌はれたる名勝少からざれども、狭山は他郡にもあり、霞ヶ関に至ては或は寧ろ多摩郡小山田に存せしものを以て其真蹟なりとすべきが如し。

紀行文

次に武蔵野の紀行文としては、戦国時代に成りしもの多く、其中当時の状態を観察するに屈強の材料たるものすらあり、北条氏康の武蔵野紀行は偽作なること明白なりと雖、道興准后の廻国雑記、宗長の東路の津登、万里の梅花無尽蔵、宗祇の北国紀行及終焉記等の如きは其著しきもの也。 何れも文章閑雅にして簡潔よく紀行文の体を得たり。

近代の作物

徳川時代に至ては詩歌俳諧を始めとし、和漢の文章夫々郡内の勝地を記せるもの少からずと雖、著しく後世に残るべきものを見ず。 明治の文士の作に至ては国木田独歩に「武蔵野」あり、大町桂月に「川越遠足」、「荒幡新富士」外一二点あり。 吉江孤雁に「武蔵野周遊記」あり。

郷土研究の資料

入間郡の古蹟勝地等に関する記事を載せたる書籍は其数殆ど揣摩すべからず。 茲に挙ぐる所は地方誌として特に編述せられたるものを主とし、 其他は単に著しきもの若干を示すに止めんとす。 何れも著者が知り得たる限に於て也。

武蔵国全体にも亘るもの

新篇武蔵風土記稿

江戸幕府学問所編 八十冊

郡誌資料として第一等の材料也。 然れども書の成れるは今より八九十年前、文政年間に属すれば(出版は明治に至りて行はれ、其際些少の訂正はありたらんも)現今の郡制乃至町村制と稍異る所あり。 従て初見の人に向て地名の検出は多大の不便を感ぜしむ。 加之寺社等の記事細字にして読み易からず。 更に精細に之を吟味する時は記載の事実にも遺漏あり錯誤あり。 殊に活字の誤謬も亦少からざるが如し。 然れども郡誌資料として大体に於て全局を網羅し、而して其記事比較的正確精密也。

武蔵資料同拾捕

山岡湊明撰 写本十冊

著名なる書なれども記載事項不秩序にして検出に不便なるは止ひを得ざる所也。 殊に其載する所も概して他書に転用せられたるが如し。

武蔵演路

大橋方長撰 写本六巻

稍不秩序なれど参考すべきもの多し。 武蔵国総記の部も見るべく、殊に入間郡の部此書中に於て比較的詳細也。

武蔵野話

鶴礒樵夫撰 刊本上下各三冊宛

入間郡の部最も詳し。 然れども断片也。 蓋し著者は所沢町付近に住したるものゝ如く、断寔に誤あり、地理にも小失あるが如しと雖、其記事全部実地の見聞に基きたりと覚ゆ。

八王子日光街道旧蹟考

八王子千人衆植田孟継撰男資元増補 川越新井政毅考補

〔入間郡高麗郡摘儁〕日光街道の道筋を中心として付近の古蹟を述ぶること比較的詳細、就中武家に関する記事見るべし。

武蔵旧蹟考

(松屋叢書第八)

主として東鑑等の古書より武蔵国の旧蹟に関係ある記事を纂めしものにして、入間郡に関する記事必ずしも多からず。

北武蔵名蹟志

上毛富田永世撰 写本二冊?

引用該博頗る見るべきものあれども、惜哉入間郡の部は唯川越越生に関して簡単なる記事ある外、入間川古歌、井草村(比企郡)に就て一言せるのみ。

武蔵名所考

撰者不明 刊本四冊 文政七年四月刊行

諸書を引用して記事を豊富にせる外、実地十分の調査を行へるものゝ如し。 就中堀兼井迯水に関する調査は極めて周到也。

武蔵野

喜田博士渡辺藤田両学士合述 時事新報掲載

[四十二年四月十日より四十三年七月中旬まで]

太古より南北朝の頃までの武蔵野の沿革を考証し説明すること委曲詳密、頗る有盆なる記事なりとす、蓋し一種の武蔵全国史也。

其他武蔵野地名考、武蔵志稿、武蔵遊草、武蔵野八景等あれど、或は未だ其書を見ず。 或は特に評する程の事もなし。 囚みに武蔵古風土記の逸文と称するものありと雖、入間郡の部は欠けて伝はらず。

川越町に関する資料

三芳野名勝図絵

中島行昌撰 写本三冊 享和元年

川越町の過去を知るべき主要なる資料にして其記事各町内分に従ひ、最初に川越の合戦に関する記事を出せり。 然れども川越城及士屋舖に関する記事は全然之を掲げず。

川越素麺

撰者不明 写本四巻或は五巻

川越町に関する主なる資料の一にして、其記事件別法に交ゆるに町内別を以てし、雑出混交せり、殊に巻帙も必ずしも諸書一定せず、然れども、三芳野名勝図絵以前の書と覚しく。 参考とすべきもの少からず。

多濃武之雁

撰者不明 写本一冊 宝暦三年八月撰

全然件別法に従ひ、川越大意、城築の記、城主の記、古戦記年中行事、各町来暦、神社、古蹟、妖怪、寺院等を掲げ諸家の菩提所を示し、終に仙波並近郊名所を記したり。 蓋し川越町に関して世に余り知られざる資料也。

川越記

(群書類従に出づ)

比較的簡単也。

川越戦史

柳井明映撰 肥塚泰蔵氏所蔵

川越に関する合戦記を詳述して城主、城内、太田道灌等の記事に及ぶ、撰者は国粹主義の熱心家筆端頗る力あり。

其他川越有幸記 三芳野砂子等の書ある由なれども未だ一覧するの機会を得ず、 又三芳野起諦は中島行昌の撰なれど、 風土記川越付近乃至入間郡の記事と同一也。

紀行に属するもの

川越松山之記

独笑庵立義撰 写本一冊文化十五年五月

江戸を発し、川越を経て、松山に至り、比企の慈光山に登り、越生町に出でゝ、再び川越に帰り、所沢方面より江戸に向ふ旅行記也。 記事固より繁簡あれど、短時日の旅行としては止むを得ず、小冊の割合に参考とすべき資料あり。

都伎山日記

清水浜臣撰 写本一冊 文化十二年

和文体にて頗る健筆、一読快然たるを覚ゆ。 然れども此書熊谷町より比企郡都伎山に到る紀行にして入間郡に関係する記事は川越町の横田氏の名を挙ぐる外一二に遇ぎず。

土地及郷村に関するもの

天保年代武蔵国郷帳

武蔵国所領沿革帳

埼玉県村誌沿革略記

武蔵分管村名簿

武蔵名寄

武蔵村附

武蔵上野郡村帳

明治年代編纂せられたるもの

埼玉県史 編者未詳

埼玉県地誌略 埼玉県出版 明治十年

埼玉県史談 須永和三郎編 明治二十七年

埼玉県郷土地誌 田沼太右衡門編 明治二十八年

入間郡地誌史談 甲種及乙種 入間郡役所第三掛出版 明治二十九年

大日本地名辞書 吉田東伍撰 明治四十年

入間郡各町村郷土誌

各町村毎に編纂し、大体一定の形式を遵奉して作製したるものにして、殆ど町村内の事項を網羅せんとするの概あり。 但町村によりて幾分の長短を生ぜるは免るべがらざるの数ならん。

徳川時代之武州本庄 諸井六部著 明治四十五年

他山の石、以て大に玉を磨くに足る。

帝国地名辞典 太田為三郎編 明治四十五年

各地方毎に一部分の由緒概況を記したるものは此外、甚だ多し。 「川越案内」「川越商工案内」の如きは其主なるものに属す。

尚最近に於て伝聞する所によれば本書と殆ど前後して左記の二書出づべしと云ふ。 同好者を裨益すること少からざるべし。

埼玉県誌

入間郡統計要覧(名称は確実ならず)