堀之内にあり。 土地縦横に小渠を通じ、内廓外廓の状、今尚一部を存せり。 近傍に内曲輪、御門、門前、宿、馬場、的場、馬洗、家中畑、屋敷等の小名あり、皆古尾谷氏在城中の旧跡にして、其名の存するもの也。 古伝に曰く、文和年中(北朝)古尾谷氏此に居城せりと、墳墓は善仲寺境内にありて、断碑四五基を存すれども読み難く、子孫近世にきこえざれば、其世系も知るべからず。 後天正中、其臣中筑後守資に又此に館すと、其墓又同寺にあり。 伝へ言ふ。 資信天正十年十二月六日村内の鎮守にて舅氏某に誘殺せられ、一家離散せり。 因て土人遺骸を此地に埋むと。 其子孫郡内三ヶ島村、南畑村、古市場村(南古谷)豊田新田(大田村)等にあり。
古尾谷氏の事も中氏の事も異説甚だ多く、且材料甚だ欠乏到底之を詳にすべからず、善仲寺に存する中氏代々の霊位の如きも、頗る吟味を要すべきもの、今は概して里伝に従へり。