精明村

総説

現状

精明村は郡の中央より稍々西南に位し、北は高麗高麗川高萩三村、東は水富村、南は元加治加治二村、西は飯能町に接す。入間川飯能街道南境を走り、飯能越生街道西部を通過せり。川越町を去る五里、入間川町豊岡町を去る一里余也。

地勢西北部は丘陵にして、中央小畔川の沿岸帯の如く、水田あり。其他は村内一円高平にして、陸田若くは森林也。土質は埴土を主とす、製茶、織物の業盛也。小久保中居青木下加治双柳宮沢平松川崎下川崎、蘆刈場の十大字より成る。戸数四百五十、人口三千二百四十三。

沿革

精明村の地方は何れも加治郷若くは加治領の地方にして、其起原七党丹党の加治氏と伴ふものならん。伝へ言ふ。後陽成天皇元慶年中、丹治武信、加治地方に住し、其子孫繁栄して、諸方に土地を領せり。精明村の如きは全部其分領する所たり。

武信七世の孫七人あり。長は中山勘解由の祖にして、加治太郎丹治実家と云ふ。第五子加治五左衛門中居に住せりと。然れども加治氏の系統事蹟其詳細に至ては末だ容易に分明ならざるもの多し。

実地に就て検するに中居宝蔵寺付近は確に加治氏一族の居住せしものゝ如く、青木に青木氏あり。泉ヶ城と称する館を有して、或は三芳野村青木に住せし青木氏と関係ありしと覚しく、蓋し丹党の一派也。更に宮沢に田辺氏あり。亦丹党の後なるが如し。田辺の城に拠り、付近に雄視したりと称す。蓋し精明の地方は鎌倉より戦国の頃に至るまで、概して加治氏の勢力範囲なりしが如し。

然るに宝蔵寺には大石重仲の霊牌もあり。或は何等かの事情の下に上杉氏の一重臣は此地方に住せしにや。小田原の頃に至ては、役帳廿五貫文蘆刈庭松田左馬助、廿五貫文三田弾正少弼の二を記せり。江戸時代の所轄は大抵支配地を以て前後を一貫すれど、采地もあり、又黒田豊前守領たりし処もあり。従て明治元年知県事所轄あり、久留里領あり。二年品川県あり、久留里藩あり、品川県はやがて韮山県となりしが、四年久留里藩は久留里県となり、次で全村入間県(四大区六小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、(高麗郡)十七年小久保外十村の連合となり、廿二年精明村を成し、廿九年入間郡に入る。

双柳

双柳(なみやなぎ)は村の西南部にあり。戸数百余、西境に堀米前と称せし処あり。飯能町中山の堀米と一村にして双柳の如きは其村中の一地方に過ぎざりし也。然るに双柳は土質不良なるを以て人家を之に移して一村となし、土質良き堀米を以て耕地とし、依て主容を転倒するの結果を生ぜしなりと伝ふるものあり。

籠塚

風土記によれば、村の西南にあり、高二丈余、周囲二十間許、塚上に浅間の小祠を設く。塚は正治元年青木氏族討死の者を埋めし処なりと云ふ。と。

稲荷社

素盞鳴命を祭る、鎮守也。

秀常寺

双柳山観音院と云。比企郡今泉金剛院末、開山良慶、慶長中の人也。明治元年飯能戦争の時兵燹にかゝれり。

青木

青木は村の西部に位せり。戸数約四十

力石塚

風土記に曰く、石を以て築きし塚にて周囲八九尺あり。来由を詳にせず。此塚に触るゝ人必ず瘧を病むと云ふ。土人恐れて近かず。と。今は此塚見当らず。

泉ヶ城趾に就て

今泉井と称する小名にして、青木氏の居地也。土地高台の中腹に位し、北するに従て降下し、南するに従て高上せり、思ふに此辺青木氏の館跡にして、特に城趾と云ふまでもなからん。青木氏が遠祖高麗人九百九十人を預り、丹波国より当国へ下れりと称するも茫然怪しむべし。青木氏丹党なりとすれば其祖は武蔵守丹治比県主也。依て或は高麗人移住の東道をなせりとの説を生じたるにあらざるか。邸内に丹生社あり、傍に鹿子木と称する珍樹あり。付近に青木姓多し。其支流なりと云ふ。

中居

中居は青木の北に接せり。村の西部に位す。古は青木の一郎なりしとも云ふ。 戸数二十余。北方の丘上、第二天覧場趾あり。明治十六年近衛歩兵演習の際、明治天皇陛下親しく、登覧し給ひし処也。今は松樹繁茂し、仰いで村民忠良の志気を振はしむ。

旗立松

北部宮沢との境にあり。丘上也。飯能越生街道の左に位す。稍々大なる松あり。伝へ言ふ。永禄年中北条氏康松山を攻むるに当り、此処に出張して、旗を起てし旧跡なり。故に後世松を栽之て之を標せしなりと。

宝蔵寺

第二天覧場の下にあり、青雲山と号し、飯能町能仁寺の末寺にて能仁の四世格外玄逸を以て開山とせり(元逸は慶長九年さ肅)されども之を当寺安置の古霊碑に徴すれば、其創建は遠く応永年間にあるが如し、其能仁の四世を以て開山とせる所以は蓋し能仁盛大なりし頃、当寺を併せて末寺となし、新に開山を置きたるならん。古霊碑を案ずるに面に真寂山翁仁公庵主霊と銘し、背に加治豊後之新左衛門尉丹氏朝臣貞純応永丙子八月一日更衣坐化寿六十二と記せり。碑式当時の制に協ひ、尤も信憑するに足れり、相伝へて之を以て開基の霊碑とせる由なれば、加治貞継は即当寺の開基にして其創建応永年間にあるを証すべし。更に一霊碑あり題して中典檀那駿洲大守心溪安公神定門神儀とあり、背に時享徳乙亥源朝臣大石重仲齡四十七、正月廿五日逝去畢と讖せり。其制亦前碑に同し、大石重仲は上杉憲実の重臣にして長尾氏と此肩せし人也。其当寺を中興せしは何故なるを詳にせずと雖、或は此地を領せるを以てか、且其堂宇たる柱橡劉らず結構甚だ奇古也、恐らくは近世のものにあらじ。

境内一古碑あり文永四知十月の文字あり、其西偏に当りて貞継の庵趾あり。又馬場と唱ふる処もあり。且寺の西境に接する守田氏の周回には近年まで空濠の跡を存したりしが、今は墾して水田となせしと云、されば此辺は加治氏の領地にして、当寺は其氏寺なりしこと疑ふべからず。而して一帯の青○(食偏に章)は屏を列ねたるが如く、之を背後に抱擁し、之に登れば四顧空濶にして、富嶽を雲際に望むといへり。乃ち地形の上より之を見るも、亦館址たるを知るべし。

清泰寺

宝蔵寺の東にあり。清流山と号す、聖天院末、開創年月不詳、阿弥陀の堂及庫裡あり。

宮沢

宮沢は中居の北に接し、村の西北部に位せり。戸数三十。

田辺城趾に就て

田辺氏、先祖を縫殿助と云ふ。北方の高台上に城塞を構へたりと称し、墓石系図等を蔵す。然れども仔細に検するに其墓石なるものは板碑へ、重刻したるものにして、其年代到底採用すべき限にあらず。又系図によれば田辺氏も亦丹党なれど、其細条未だ遽に完壁に近しと云ふべからざらん。思ふに田辺氏、屋敷続き十七町歩を有したりきと云へば、宮沢の豪族にして、其開発の卒先者たりしならん。而して或は居地を稍々高台の上に撰びて構堀を設け、後世之を呼で、田辺の城と称せしに過ぎざらん。

□□神社

子御前社(田辺氏の勧請)白山社、御嶽社の合殿にして、村の鎮守也。神職は田辺氏の分家、田辺氏なりと云ふ。

下加治

下加治は中居の東に隣れり。戸数三十。

白髭社

中居青木下加治小久保の鎮守也。

小久保

小久保は下加治の北に位す。昔小久保氏と云ふもの草創せるによりて小久保と 名けしとかや。今は小久保を姓とするものなし。戸数三十。小久保の南端、陸田の間山王の松と云ふあり。周囲一丈三尺余なりしが、明治三十四年八月十四日落雷の為に枯死しぬ。

長福寺

医王山と号す。

平松

平松は村の稍々東部にあり。戸数八九十。

円泉寺

梅松山と号す。

川崎

川崎は村の東北にあり。戸数三十。

白髭社

川崎下川崎平松の鎮守也。

普門寺

千手山教学院と称し、比企郡金剛院末、古墓碑に人皇五十一代平城天皇の御宇大同元年の草創とありと云ふ。確なるやを知らず。寺は元堀兼村東三ッ木にありしが如く信ぜらる中興開山尊慶、今は二十一代目也。

下川崎

下川崎は川崎の東にあり。戸数三十。

芦刈場

芦刈場は川崎の東南にあり。村の東端に位す。戸数四十余。

赤城神社

村の鎮守也。

永昌寺

弥勒山と号し、能仁七世大庵文広開山、寛永年中の人也。開基良快も同時代の人、長徳寺の先代にて其寺除地の中に永昌寺を起てたりと云ふ。

長徳寺跡

同じく弥勒山と号し、修験にして、笹井観音堂配下、村の創立者なりと云ふ。