白髭神社
文亀永応以前の辺替なりと称するものあり。村社也。
原市場は村の中央に位す。戸数百四五十。妻沢の谷は深く西に入り、上名栗への径路也。村民農隙に紙漉を行へるものあり。曲竹(くせたけ)村は明治初年原市場に合併せり。
文亀永応以前の辺替なりと称するものあり。村社也。
白岩にあり。赤沢全錫寺末也。臨済宗建長寺派とす。白石山と号す。永禄五年五月梅室の創立にして、文禄二年火災に罹れり。梅室慶長二年に寂す。中興は盛翁慶槃にして寛永元年に寂す。
無量山と号し、曹洞宗、直竹長光寺末、開山独堂長禄元年示寂、中興開山宝室正保元年寂、元境内に承久二年外数基の板碑ありしと云ふ。
金亀山と号し、長光寺末、開山良積享保五年示寂也。
妻沢山と号し、曹洞宗、多摩郡平井村宝光寺末、開山泰応柱初、元和元年寂す。
妻沢にあり。一名を上屋敷と云ふ。山上にありて、残濠今に存す。昔松平某の居城なりしと伝ふるものあり。上屋敷に対し、今も小字に中屋敷と称する所ありと云ふ。
石倉にあり。下赤工に接せる山脈中にあり。干魃の際土人雨乞をなすと云ふ。此辺を下屋敷とも称す。