白髭社
村社也。永禄七年の造営にて棟札に大石孫二郎殿百姓衆とあり、外に刀一振を社宝とせり。長三尺三寸無銘也。中山解勘由の家臣加治某八王子城落城の時、帯せし刀にして、小瀬戸村民長十郎の祖某が納めし所と云ふ。
白子は村の東南隅にあり。東西十八町、南北一里、人家六七十、吾野川に沿へり。西北部を深沢と云ふ。山口氏文書に白子村深沢共とあるは是也。
村社也。永禄七年の造営にて棟札に大石孫二郎殿百姓衆とあり、外に刀一振を社宝とせり。長三尺三寸無銘也。中山解勘由の家臣加治某八王子城落城の時、帯せし刀にして、小瀬戸村民長十郎の祖某が納めし所と云ふ。
清流山と号し、曹洞宗にして、飯能町中山能仁寺末、開山能仁寺四世、格外玄逸、慶長八年三月廿八日寂、これ恐らくは中興なるべし。寺領に就て大石源左衛門定久及北条氏邦の与へし文書二を蔵す。 長念寺々領之土貢無之候訖可納之於向後不可致難渋候門前之者共も寺家へ能能可走廻也
天文十二年七月朔日花押(定久の花押)
寺領之事如前々可被拘不可有横合旨被仰出者也依如件
丙寅正月十三日
白子の内 長念寺
と。丙寅は永禄九年ならんと云ふ