戸宮
戸宮は村の東北端に位し、勝呂、三芳野、名細三村の間に突出せり。 元は富屋と記せしと云ふ、戸数四十。 川越高坂街道に沿へり。
八幡神社
屋原にあり。 村社なり。
鶴ヶ島村は郡の中央より稍々北部に位し、北は坂戸町勝呂村に、東は三芳野村名細村に、南は霞ヶ関村高萩村に、西は高麗川村大家村に接壞せり。 川越越生街道と、豊岡坂戸街道とは村内に於て交叉し、川越町を去る三里弱、豊岡町を去る三里強なり。
土地概して高台にして、小流の走る処、沿岸稍々低温也。 小流には西に太田川あり。 東に名細村に入る小川二条あり。 全村大概山林ならずんば陸田にして、水田は唯此等小流の沿岸に見るのみ。 土質も軽鬆質なり。
山林の樹木は伐りて薪炭とすベく、又製茶、織物の業も行はる。 産物之に準ず。
五味ヶ谷、戸宮、大塚野新田、脚析、三ッ木、三ッ木新田、高倉、町屋、藤金、上、中、下新田、上広谷、大田ヶ谷の十四大字より成る。 戸数六百三十七、人口三千七百三十。
鶴ヶ島村地方は甚だ古く開けたる処にあらざるが如し。 町屋及新田地は大抵正保以後に開墾せられ、広谷、戸宮、脚析等稍々古きが如し。 広谷は名細村下広谷と一村にして、五味ヶ谷の如きは其一小字に過ぎざりしと云ふ。 鎌倉時代の武士に広谷五郎の名見ゆ。 降て北条役帳には二十一貫五百六十三文戸宮間宮豊前守、八貫文藤金布施弾正左衛門、二十貫文脚析六郷集、と見えたり。 或は高倉を以て高倉福信の出でたる処と称すれど、挙証薄弱、到抵支持し得べき見解にあらず。
江戸時代に入りては采地支配地多きに居り、川越領も若干あり。 幕末の頃川越領なくして古河領あり。 之を以て、明治元年知県事及古河領あり。 二年品川県次で韮山県、及古河藩あり。 四年古河県となり、次いで全村入間県(四大区一小区及四小区)に入る。 六年熊谷県に転じ、九年埼玉県となり、十二年入間高麗郡役所に隷し、高麗郡たり、十七年上広谷連合、二十二年鶴ヶ島村となる。 二十九年高麗郡を廃し、因て入間郡に入る。
戸宮は村の東北端に位し、勝呂、三芳野、名細三村の間に突出せり。 元は富屋と記せしと云ふ、戸数四十。 川越高坂街道に沿へり。
屋原にあり。 村社なり。
大塚野新田も村の東北隅にして、戸宮の西に接せり。 古は此辺遞たる原野にして大塚原と云ひしを、元文前後三芳野村青木の良民喜平次等開墾し、大塚野新田と名けたり。 戸数二十。
五味ヶ谷も東北部に位し、名細村下広谷と密接せり。 戸数四十。
権現にあり。 村社なり。
上広谷は五味ヶ谷の西に接し、村の東北部にあり。 上下の別を生じたるは慶安元年なりと云ふ。
広谷山と号し、大智寺末、弘治元年正月村内岸田荘呂正春の開基なりと云ふ。
藤金は村の中央より少しく東部に位す。 戸数六十。 藤金新田は其北方にありて享保年中藤金の農民伊兵衛等の開墾せし処、明治十年藤金に入る。
長竹山と号す。 天台宗羽黒派にて東京普門院末、今は無住なり。
大田ヶ谷は藤金の南に隣り、村の東部に位す。 戸数一百弱。
慈眼山喜見院と号し、川越中院末創立不明、或は文永年間なりとも云ふ。 疑ふべし。
脚折(すねおり)は村の北部に位し、豊岡坂戸街道に沿ひ、川越越生街道の辺にも及べり。 脚折或は臑折と書するを以て正しとすべきにや。 戸数一百弱。 脚折新田は亨保年中脚折の人利兵衛等の開発せる処にして、村務等凡て本村に役属せる小村なりしかば明治八年脚折と合す。
下向にあり。 村社なり。 風土記に曰く、「往古は臑折大田ヶ谷、羽折(此村今なし)和田(臑折の小名)高倉大六道(今上新田)小六道(今中新田)七ヶ村の総鎮守たりしと云ふ」と。 今は脚折の鎮守なり。 古式として例祭日早旦社前庭上に注連竹を立て、新調の弓矢を飾り、氏子一同出場して威儀を正し、飾弓矢を巡る風ありと云ふ。 何れの頃の創立なるを知らず。 天正二年再営、明暦、寛文、延宝以下数次再営の棟札あり。 錦旗二流、元亀年間平野弥次郎源重朝の寄進なりとやら称す。 社地に周回二丈七八尺の巨欅あり。 又雷電天神八幡神明愛宕等の末社あり。
安養山蓮華院と号し、大智寺末、開山不詳、明和八年隆澄を法流開山とす。 朱門あり、古池あり。 本堂の正面に大なる虎の額を挙げたり。 傍の小堂に慶安三年と記せる鰐口あり。
東北隅の小字にして、叢林四闡を隔て、水田廻りて一小島の状を為せり。 内に一杉樹あり、往年大松樹ありしも枯朽せり。 口碑に往古鶴の巣籠れる処と云ふ村名は之より出でし也。
越生坂戸両街道の合する処に近く、小塚あり。 昔正月十五日脚折中の門松飾等を集め此処にて之を焚し、塞祈を祭れりと云ふ。 俗に之をドンド焼と云ふ。 即才道木して塞戸来又は道祖土来ならんと云ふ。
カンダチガ池と呼ぶ。 昊天に雨を祈る。 其時里民麦殼にて龍体を作り、人力を以て池中を遊泳せしめ、壮年者池中の龍体に雨ふんたんぢやりと呼ぶを風とせりと云ふ。
三木は脚折の南に接せり。 村の略中央に近し。 戸数六十。
普門山蓮華院と号し、真言宗、比企郡金剛院末、開山栄祐永正二年寂せりと云ふ。
三木新田は三木の西南に位し、坂戸街道の付近を云ふ。 其名風土記に見えず。 思ふに一村として独立したるもの必らずや文政以後の事ならん。
高倉は村の西部に当り、脚折三木の西方に接せり。 戸数七十。 或は曰く高倉は古高倉福信の生地なりと。 其証として挙ぐること甚だ不可なるもの多し。
曰く、旧松栄山高福寺は福信の菩提寺にて、其姓名の頭字を採りて高福と名けたりと。 然るに寺は江戸時代の始に創立せられたるものの如く、寺名説の如き索強附会たるを免れず。 曰く、寺に不動の仏書あり。 今之を不動堂に安置せり、福信の守本尊なりと。 然も其書正に古しと雖、さまで名書とも覚えず、殊に福信の頃果して斯く不動の仏書行はれしや否やを知らず。
曰く福信の古墳と覚しきものありと。 郡内至る処古墳のなきにあらず、然も頗る大なるものありて、而も到底其何人の噴墓たるやを知らざるを普通とす。
曰く高福寺墓地に貞治七年の板碑ありと。 郡内至る処、南北朝時代の板碑あり。 其高麗人移住の説は高麗村新堀に高麗の正統(?)の存するを無視し、日枝神社勧請説は福信の時代と延暦寺及日枝社全盛時代とを転倒し、高倉村の古大にして、屋敷と称する小名あり、又人家区画の整然たるを説くは徳川時代の諸村に往々珍らしからざる事実なるを如何せん。 脚折に白髭神社のあるも理曲とならず。 郡内には大凡二十有余の白髭あり、思ふに高倉村の成立は到底福信の頃にあらずして室町の頃にもやあらん。
中央より稍々東に偏せり。 村社也。 社前に杉の並木あり。 末社及境内社に稲荷、愛宕、神明、熊野、浅間等あり。
日枝社の前にあり。 元秋葉山と称し、大智寺末、開山良応元禄四年寂す。 今は廃寺となり、僅に空堂を存するのみ。
松栄寺と号し、大智寺末、開山円乗元禄十二年寂す。 今は廃寺となり、僅に不動堂を残せるのみ。
高倉の東部坂戸街道の西一二町にして、東西に土居の跡あり。 頗る廃頽したれども、一部明に弁ずべし。 明応四年十月古河の足利政氏、上杉顕定を授けて高倉に陣せしこと新撰和漢合図に見えたり。 思ふに此処は政氏の拠りし処ならん。 柏原村御所の内の条参照すベし。
砦跡の東、街道を超えて一二町にして長方形に土居の跡明に存する処あり。 是れ川崎定孝屋敷跡にして、定孝は此辺の地頭、頗る荒蕪地開墾に力あり。
上新田は村の西端にあり。 戸数六十。 明暦二年の水帳には高倉村内上新田開検地水帳と記せり。 思ふに上中下三新田の辺は高倉に属せし原野なりしを、明暦の頃開墾し、漸次三新田の独立を見るに至りしものならん。
中新田は上新田の北にあり。 戸数三十余。
下新田は中新田の東北に位し、村の西北部に当る。 戸数四十余。
町屋は村の西南端にあり。 元、入間郡の住民来て開墾したる処と伝へ、寺家村とも称し、又町谷村とも記したりき。 寺家は小名となれり。 人戸二十余。 古の鎌倉街道は此地を通過せしならん。
町屋に寺家と称する小名あり。 又稲荷窪に陣屋跡ありと云ふ。 依て或は寺家を以て高麗寺跡と称し永享十二年上杉修理亮が陣せしは此処なりと。 云ふものあれど、之れ相州高麗寺ならざるか。