毛呂村は郡の西北部に位し、北より東は川角村に、東南は大家村に、南より西は山根村に、西北は越生町に接壌す。川越町を去る四里半、飯能町を去る三里也。川越越生街道は村の北部を走り、飯能越生街道は西部を貫く。
地勢西南隅に当て小丘あり。臥龍山は稍々中央部に近く平原の間に孤立せり。毛呂川は山根村阿諏訪及瀧ノ入に出でて、村の西北境を流る。大谷木川は山根村大谷木より来て、村の略々中央を流れ、東に屈して川角村との境をなす。越辺川は越生町より来て北境を崖り、毛呂及大谷木の二川を合して川角村に入る。
此等三川の沿岸には低地あり。殊に大谷木川の沿岸水田多し。然れども村の大部は土地高台にして、陸田相連り、森林も少しく存す。産業は農業及養蚕を主とし、絹、麦、米の産あり。
毛呂本郷、岩井、前久保、長瀬、小田谷の五大字より成り、人口二千六百入十七、戸数四百三十五。
毛呂村の地方は鎌倉時代の始より既に開け、毛呂氏此処に居り、臥龍山上飛来明神あり、八幡大神あり、又古宮明神の如きも或は比較的古代より存在したるものならん。斯の如くにして毛呂氏は毛呂村地方を中心として、近村に勢威を振ひ、南北朝を経て室町末期の頃に及びしが、北条氏の勢力関東を圧するに及び、毛呂氏も之に服属し、而して漸く其氏名を史上に没するに至れり。
かくて江戸時代には毛呂七村と称せられ、毛呂本郷、堀籠、馬場、平山、長瀬、小田谷、前久保に分れ(寛文十二年七村に分てりと云ふ)元禄年中川越城主松平美濃守の領する処となりし外は大抵常に采地たりき。寺社領を除く(但一二個村は暫時支配地となりしことあり)。明治元年武蔵知県事に属し、二年品川県となり、又韮山県となり、四年寺社領を併せ、次で入間県と称し、六年熊谷県に属し、八年堀籠、馬場、平山の三村を合して岩井と改め、九年埼玉県に入り、十二年入間、高麗郡役所の下に属し、十七年前久保、岩井は川角連合に入り、毛呂本郷、小田谷、長瀬は現今の山根村に属する諸村と共に毛呂本郷連合を作れり。而して二十二年に至りて毛呂村成る。
前述の如く毛呂村は夙に毛呂氏の拠地たりしものの如く、毛呂氏度々古書に見ゆ。東鑑文治二年二月二日の条に、「毛呂太郎藤原季光国司事。是太宰権帥季仲卿孫也。心操尤穏便、相二叶賢慮一歟、旁理運之間、就為二御分国一夕挙二申豊後国一給云々」と見え、同六月朔日の条に、「入レ夜豊後守季光献二盃酒一、昨日自二武蔵国一参上云々」と見え、又建久二年三月五日火災の際相模の渋谷庄司と武蔵の毛呂豊後守と最前に馳参せると見え、又「建久四年二月十日毛呂太郎季綱蒙二勧賞一(武蔵国泉勝田)云々」と見え、又「仁治二年四月廿九日大仏殿造営之料、毛呂五郎入道蓮光分五千疋弁償云々」と見えたり。降りて戦国時代の史書にも毛呂氏の名往々あらはる。例へば鎌倉大草紙(足利持氏滅亡記)永享十三年七月四日「一色方へ馳せ加はる軍勢雲霞の如し。味方に加はる軍兵入西には毛呂三河守」云々とあるが如き是也。少しく降りて古戦録にも後北条の麾下として、毛呂土佐守の名を出し、風土記は大谷木村大谷木氏所蔵毛呂氏に関する北条氏政以下の文書五通の写を掲げたり。蓋し毛呂氏は鎌倉に仕へ、後室町時代に入りて上杉氏に属し、次で後北条氏の配下となりしと明也。
後にも記すが如く、毛呂本郷妙玄寺付近及小田谷長栄寺付近は少くとも或時代に於ける毛呂氏の住地たりしなるべく、山根村大谷木の大谷木季利氏は毛呂氏後裔の一と称せられ、其の住宅の東方に「季光公之碑」を建てたり.碑は毛呂氏の祖季光の事蹟を略述せるものにして、明治十五年大沼厚の撰文也。又山田氏も毛呂氏の後と称せらるれども、今其所在を知らず、現今長栄寺に蔵する毛呂山田氏系図は大谷木本、田畑本と比較し、或は史上の事実と対照して、取捨増補したるものの如く、曽て風土記に引用せられしものと若干の相違を生じたりと雖、毛呂氏の事蹟を究むるに又一の参考材料たるを失はず、但其正確なる史実に至っては到底得て之を詳にすべからざる也。」毛呂氏が、毛呂地方に拠りしと殆ど並行して、越生氏は越生地方にあらはれ、然も其期間殆ど相等しく、其地方相接近せり。然れども其関係は全く不明也。之れ毛呂氏系図等によるも、又越生氏の材料たる法恩寺年譜録等によるも此両氏は全く交渉ありしを記さざればなり。
毛呂本郷は村の西北部に位し、飯能越生街道に沿ふて人家甚だ密集し、一小宿駅の観をなせり。戸数百余。
宿の東方に位し、稍々荒廃せる一寺堂あり。雨宮山妙玄寺と称す。寺は曽て失火全焼し、今は一切の記録を存せず。唯天文年中毛呂土佐守顕季の妻某の設立せる所にして、開山を忠室良動(明治元年十月寂す)と伝へられ、同村小田谷長栄寺に属す。然るに寺内墓地に小五輪塔十余基あり。毛呂氏の墓と称す。何れも文字漫滅して読むべからずと雖、中に本空禅尼応永二十六年二月一日と記されたるあり。又一基陰々として徳治□年と讃み得るものあり。然らば此寺或は徳治応永の頃既に創立せられて、天文年中再興せしか、或は徳治応永の二基稍々後世に至て追立せられしか、年代事蹟今詳に考ふべからざる也。
妙玄寺の南に又一寺あり。寺堂大ならず。妙光寺と称し、妙玄寺に属す。其設立も遥かに降りて元禄若くは宝永の頃(徳川五代将軍)にありと云ふ。
妙玄寺付近約一町歩許の地方を称して堀内と名く。土地比較的高く、其西北は漸次下降して毛呂川の低地なり、其東方は臥龍山を控へたり.此辺今も尚布目瓦を出し、旧馬場村も其東北に隣接せり、思ふに此地毛呂氏の館跡たりし処なるべし。
岩井は毛呂本郷の東北に接し、川越越生街道を越えて更に北方にも及べり。明治八年堀籠、馬場、平山の三村を合して岩井と称したること既に述ベたり。堀籠は或は堀割等の存せし処にや、馬場は即ち毛呂氏館に属する馬場なりしと伝へられ、平山には小田原北条の頃平山氏知行在住したりしものの如し。現今岩井の戸数百余。
(一般には三社の一住吉神社を以て通称す)旧平山分にあり。今は臥龍山に合祀して、其神体青石二尺許の石剣をも移し去れりと雖、社殿尚存し、杉松之を護れり。社伝詳ならず。然れども比較的古社なるにや。
旧平山分の西部、古宮明神に近く、土居の稍々長方形に連続せる処あり。土人称して堀内と請ふ(今はあまり称せず)今は斉藤氏の居となれり。曽て何人の住せし所なるやは口睥にも存せずと雖、北条役帳平山長寿十六貫二百廿八文入西郡(小山)平山(檜原)、及平山善九郎十六貫七百文平山分とあるを見れば、或は此平山氏の居跡なりしにや。
堀内の東に接して、平山氏の住宅あり。元斉膝氏と称し、明治初年村名に因て平山と改む。賞に平山村諸斉藤氏の本宗也。故に今の平山氏、古の平山氏と全く何等の関係なし。伝ふる所によれば、斉藤氏元松山城主上田案独斉に事へ、天正十八年松山陥るに及で、兄弟三人、一人は比企郡中山村園部に住し、一人は郡内高萩村女影に住し、一人は此地に住せりと。家に北条氏政が、上田案独斉に与へたる古文書あり。又漢籍書画の所蔵甚だ多く、石器数点あり。邸内居木蓊鬱たり。
平山氏の東に接して復土居の長方形に連続せるを見る。之れ江戸時代の始村田和泉守が居住したる処にして、土居の中今も村田氏二戸住し、其北方土居外にも尚二三戸村田氏あり土居の中東方の村田氏は其宗と称せられ、家に大刀を蔵す。本家村田氏、西隣村田氏と北隣村田氏との三家家屋の築造甚だ奇古にして、其柱頗る大而して劉らさる也。(平山分島田氏の柱も亦同じ)
旧堀籠分に塔の越と称せらる処あり。一松樹の下、板碑を出し、文字明かならず。依て或は古代入間の孝子矢田部黒麿の墓と称するに至りしが、仔細に検する時は其文字宝亀三年十二月にあらずして宝徳二二年十月なると疑なし。黒麿の墓は断じて斯くの如きものにあらず。尚其地に就て検すれば、元徳二年八月六日と刻せる小板碑あり。其他破片若干あり。元徳は後醍醐天皇の時、宝徳は足利義政の時代に当れり。
法眼寺は堂を越生町上野多門寺に移し、円福寺も今は其跡を存するのみ。堀籠分三塔には金毘羅社あり。
前久保は村の東北部を占め、川越越生街道の北方に人家散在せり。戸数六十。川越松山之記に前窪村と記し、此辺凡て梶木多く畑に植ゆと見えたり。蓋し当時の実見記ならん。前久保の西南岩井、長瀬及毛呂本郷との境界は互に交錯して甚だ明ならず。臥龍山の如きも厳密に物色すれば前久保に属すと請ふ。
毛呂本郷の東方に当り、長楕円形の容姿整然たる一山あり。松杉群生して頗る美観を添へたり。之を臥龍山と名く。臥龍山は南北三丁余、東西一丁半、其形非常に大なる瓢形古墳に似たり。
山上に神社あり。境致甚だ幽邃高雅也。
臥龍山上相並て二社あり。其稍々小なるは八幡宮にして、稍々大なるは飛来明神社也。飛来明神は毛呂氏代々の守護神なりしが如く、八幡宮は恐らくは鎌倉時代に設立せられしものならん。然るに延喜式神名帳によれば入間郡五坐の神の内出雲伊波比神社の名ありて、其所在明かならず。此に於て維新の頃勤王家横田直助等熱心に主張する所あり。遂に飛来明神を改めて、出雲伊波比神社と称するに至れり。社に大般若経残缶二三十巻あり。又北条氏政の鐘借用に関する古文書を蔵す。其他徳川時代の文書少なからず。毛呂村内の神社は今は大抵此社に合祀し、神官は紫藤氏。社後に末社等甚だ多し。
臥龍山の南に住す。其祖紫藤貢は毛呂氏の臣にして、此社の社司となれりと云ふ。小田原役帳に紫藤新六、十八貫七百六十三文入西郡大類卯検地、六貫三百四十五文同大類、卅貫文御蔵出、以上五十五貫八文とあるは恐らく其一族なりしならん。其後吉田家の配下となりしことあり、現主宣安氏に至て十六代なりと請ふ。其家屋、大柱にして劉らず。頗る古色あり。
曽て四寺あり。今何れも廃滅に帰す。天台宗の等覚院は紫藤氏近傍磐若にあり、真言宗の泉乗寺は新井惣助氏の西にあり。兵恩寺は宮里に、長源寺は山子にありき。
小田谷は村の西南に当り、飯能越生街道に沿ひて人家散在せり。其数四五十。
村の西小丘の中腹に一寺あり。金島山長栄寺と称し、曹洞宗、梅園村龍ヶ谷龍穏寺に属す。
伝ふる所によれば、毛呂土佐守顕季大永五年起立せる所にして、龍穏七世節庵良?(竹冠に均)を以て開山とすと云ふ。寺僧の語る所によれば其本堂は大永以来末だ一たびも改築せずと。堂に古霊碑あり。開基長栄寺殿一田幻世庵主天文十五丙午十二月廿七日逝去(毛呂顕季)と記せり。牌式字体可なるが如し。
堂の後方、丘腹に住僧の墓所あり。中に五輪塔四基あり。陰かに「以三妙玄大姉」「弥阿文暦元年遁世」「恵倫応永三年遁世」「一田幻世庵主天文十五年十二月廿七日」と読まる。応永及其以前の墓石は後世の追善にや。寺に毛呂山田氏の系図を蔵す。
嘉永七年酒井修理太夫の臣山田九太夫が栗原、田畑、大谷木、長栄寺並川越山田氏等の諸本によりて記せる所也。
長栄寺の東北、丘下に堀内と称する処あり。其南方には近年まて土手堀の跡を存したりと云ふ。
又寺の北、丘上一小塁跡あり。今も尚土居の跡を存すと聞く。思ふに此辺曽て毛呂氏の住地たりし処なるべし。然も今や畑となり森となる。低徊之を久うす。