梅園村
総説
現状
梅園村は郡の西北隅に位し、北は比企郡に接し、東は越生町及山根村に、南は東吾野村に境し、西は秩父郡に隣る。川越町を去る七里、飯能町を去る四里、越生町より来る県道は村内を縱貰して東吾野村に出づ。地積郡内諸町村の中にありて第一位を占む。
全村山地にして、高篠飯盛諸嶺の余派将に尽きんとし、或は高く、或は低く、南西北の三面を囲み。幾多の峯丘其間に碁布して、一の縱谷と多くの横谷とをなせり。越辺川は此渓谷に出づる水流を悉く吸集して、東北越生町に向ふ、交通不便なれど山紫水明の風光あり。梅、密柑、絹、石灰、木炭の産あり。戸数五百六十。人口三千二百六十三、津久根、堂山、上谷(かみやつ)、小杉、大満(だいま)、黒山、龍ヶ谷、麦原の八大字に分る
沿革
梅園村の地方は南北朝以前既に開けたるものゝ如し。小杉の天神社には観応、応永年代の棟札あり。堂山の最勝寺は今は廃寺に同じと雖、館跡を隔てゝ、東福西照二寺の並立せし所と伝へられ、西照寺独り存して名を最勝と改めたるなりと云ふ。全村古の越生郷にして、越生氏と関係密接なる地なりし也。上谷の薬師堂は越生家行の守仏を安置したる所と伝へられ、越生氏衰へて太田氏丹波国より来て此地に住し、龍穏寺を建てたり。太田氏道真道灌の時大にあらはる、其館跡小杉にあり。越生町成瀬と堂山の間に田代と称する処あり(今は古池に入る)、大満に富沢と称する処あり。共に古は一の村落と覚しく、或は年譜録に見え、或は太田資正の制札に見えたり。黒山の熊野神社は川角村山本坊が其以前奉持したりし処、其寺地も社の付近なりしものならん。梅園村の地方由緒深きこと斯の如く、而して今や古蹟漸く湮滅し、僅に小杉梅園と黒山三瀧に依て其名を知らる。山中の大加藍龍穏寺の如きも知る人甚だ稀也。慨せざるべけんや。
江戸時代は川越領、一橋領もありしが、采地支配地多きに居り、明治元年知県事二年品川県次で韮山県、四年入間県(五大区七小区)六年熊谷県、九年埼玉県となり、十二年入間高麗郡役々轄、十七年大満連合(麦原は比企)二十二年梅園村を成す。明治元年五月飯能に戦ひし幕府方の残党は三々五々遁れて梅園地方に入りしが如きも、事全く平ぎ、其郡将渋沢平九郎は黒山の河辺に自仞せり。
津久根は村の東北端に位し、越生町に接せり。古は槻根と記せりと云ふ。風土記に曰く、土地梅に宜しく、梅樹を多く植ゆ。実を取て梅干として江戸へ送る。此辺皆同じけれとも、殊に当村に多しと云ふ。古は漆を多く植へて其税を出せしかど、今は税のみ出して漆をば植へずと。文化年代の実状也。仲姓多し。
若宮にあり。正暦二年八月仲内匠頭方盛、新井勘解由勝重等の創立にして天保六年の再興なりと云ふ。村社也。近年厳社、山神社を合祀せり、社地越辺川に臨む。
真言宗にして堂山最勝寺に属す。天正時代の創立也。
明治初年の創立にて、観音の像を安置せり。
堂山は津久根の西に接し、越辺川の左岸を占む。堂山の名は例へば堀内の館跡に於けるが如く寺堂の存せし処なるを暗示するもの也。
梅園神社に合す。
青龍山と号し、真言宗にして、法恩寺に属す。古は天台にして堀内大御堂の東西に東福西照二寺の対立せしものなりしと云ふ。其創立は古くして恐らくは越生氏の手に成りしものならん。大御堂は其後移されて、最勝寺境内に置かれたり。明治四十一年火を失し、土蔵及大御堂及表門の外悉烏有に帰し、数百年来の古寺今や甚だ荒寥たり。
最勝寺の東に隣れる陸田地を堀内と名く。恐らくは古越生氏の館第ありし処ならん。所謂大御堂も亦此辺にありしと覚ゆ。成は曰く曽て五輪の石塔一基ありきと。
堀内の東にあり。
上谷(かみやつ)は堂山の北に当れり。正保の頃上谷戸と記す。
梅園神社へ合す。
最勝寺に属し、寛永の頃の再興にして、創立は明応以前なりと云ふ。今は廃寺となる。
越生家行の守本尊を安置すと云ふ。
小杉は津久根の西南、堂山の南にあり、越辺川の両岸を占め、山高く水清し。
元天神社と称し、古社にして観応、応永、嘉吉、長禄文明、長亨、永正、天文、天正、慶長、寛永等の棟札を蔵す。旧別当大泉院は山本坊配下の古き修験にして、其屋宇所謂手斧打ちの大柱を用ゐたり。今は即ち神職たり。明治四十年付近の諸社を合し、名を改めて梅園神社と呼ぶ。
村役場の東方に位し、小杉将監なるものゝ開基と伝ふ。将監は永禄元年没せりと云ふ、創立の頃臨済宗に属せしも、後龍穏寺末となり曹洞宗となる、本堂あり。薬師堂あり。
開基は手島佐渡守と云ふ。後龍穏寺に属す。
越辺川の左岸にあり。寺後は丘陵也。越生山と号し、太田道真の開基と伝ふ。古老の説に寺は元越路房と称する処にありしを此地に移し、龍穏寺末とせしなりと云ふ。越路房は此地を去る遠からず。寺堂明治三十五年焼失し、今は仮舎を設く、見るべきものなし。
健康寺付近にして、後は丘陵を控へ、前は越辺川に臨み、土地狭隘なれども、稍高くして平也。陣屋と呼ぶ処あり。付近に道灌橋あり、道灌馬場あり。館は少くとも道灌没後父道真が遁棲せし処、或は恐らくは道灌道真共に其全盛の頃此地に住せしならん。懐古の情切也。
抽の木谷にあり。戦国の末、小杉将監の住せし処也。
大満(だいま)は小杉の南に位す、元大間と記せるが如し。越辺川の両岸に跨る。
宮前にあり。村社也。創立不詳、元、降三世明王神社と呼べり。
龍穏寺末にして、其四世天庵の開山なりと伝ふ。丘側の小寺也。
黒山は大満の南にして、村の南部に居る。東吾野に出づる処に面振(かわぶり)峠あり。
北ヶ谷戸にあり。明治初年まで山本坊の支配にして、坊は寛永以前曽て此社地の付近に住せし也。明治四十二年八坂、琴平、愛宕諸社を合せり。
永正の頃龍穏寺五代雲崗の取立と称し、開山喜州善欣天文五年寂す。今は堂を存するのみ、龍穏寺末
龍穏寺末、
男瀧女瀧は相接して不動堂の傍にあり。天狗瀧其東にあり。土地幽谷にして、境致清浄、夏時遊覧のもの甚だ多し。其下二三町にして鉱泉旅館あり。
県道三瀧の分岐点より一二町の上に位す、明治元年飯能より遁れて、此石上に自仭せりと云ふ。川に近く、動もすれば其処を知り難し。
龍ヶ谷(たつがや)は大満の西南、黒山の西北に位し、越辺川枝流龍ヶ谷川の深谷にして、長く西方に突入せり。正保の頃の書に今市村の内龍穏寺領と見え、元禄の国図に龍ヶ谷村の名あらはる。龍ヶ谷の名称及羅漢山に関する物語は共に地名伝説也。
裏山にあり。村社。
中央部に位す、郡内曹洞の大寺にして、後は山を廻らし、前は渓流に臨み、山間の名刹也、宝暦年間火災に罹りしも、寺堂雄大、表門の厳然たる楼門の華麗なる、自然石石燈籠の巨大なる、本堂庫裡等の堂々たる、訪ふものをして山中此大伽藍あるに驚かしむ。長昌山と号す。古は瑞雲山と号し、門外堂沢と称する地方に寺堂を設けたりきと云ふ。永亨の頃足利義教の開基と称すれど、恐らくは太田氏などが上杉持朝若くは足利義教の名によりて建立せし者ならん。或は太田氏以前小堂若くは小庵などの存せしやも計られず、江戸時代は朱印百石、頗る盛大なりき。秩父高山不動は寺の奥院なりとの説あり。東京麻布に宿寺を設く。関東曹洞の三大利也。天正以後の古文書若干あり。東に三枝庵跡あり。太田道真の住せし処なりと云ふ。
龍穏寺の末にて、五十二三年前の設立也。人呼で新寺と名く。近年廃寺となり寺堂を去れり。
麦原は村の西北隅に位し、土地甚だ高峻也、元比企郡に属したりき。麦作に適す。
慶長の頃より存在せり、村社也。
龍穏寺十四世大鐘良賀の中興なりと云ふ。文化四年復本堂を再興す。地蔵堂及庫裡あり。
里人上田案独斉斉此処に居住し、畠山重忠之を攻めたりと云ふものあり。案独斉は松山に居り、殊に重忠と年代甚だ違へり、蓋し奇怪なる伝説と云ふべし。然も小杉に箭先あり。又比企郡明覚村大附(麦原及上谷に隣る)に弓立山あり。古戦の説抑も何等か形蹟ありしにや。
文明十八年季是十日越生の道真が自得軒に就て郭公稀なりと云ふ題にて七絶一首を吟ず。
縱有千声尚合稀
況今一度隔枝飛
誰知残夏似初夏
細雨山中聴末帰
又長亨二年八月十六日龍穏精舎に入て一絶を賦す。
越生古寺知鞍時
斜照吹鵜歌宿枝
忽入上古参薬石
愧非忘箸老禅師
梅花無尽蔵の一節
梅林
佐々木信綱
秩父嶺は霞に消えて水車音しつかなる梅の下影。
村歌
春先つもゆる梅の花。
夏のすゝみに瀧もよく。
秋は紅葉に冬は雪。
四季の眺も麗はしや。