日本太古の原住民族に関しては、未だ確乎たる定説あるを知らずと雖、我大和民族に先て、アイノ民族か此土に住したるは疑ふべからず。 然れどもアイノ族は古史に見えたる土蜘蛛なるものに該当するや否や、乃至アイノ以前例へばコロボックルと称するが如き民族ありて、石器を使用したるや否や。 議論の甚だ定らざる所なりとす。 今日の研究によれば、多数の学者は、石器時代に於ける我国の原住民は一種のアイノにして、国史の開くる頃に当ては稍進歩したる程度に達し、彼の土蜘蛛の中には少くとも、当時のアイノ民族を包合せりとなす。 石器時代の原住民は概して漁貝を以て事となし、住民は竪穴小屋に住したるものありしが如し。 或は貝類以外の食物を取りしものあるや否や、竪穴以外幼稚なる住居を営みしや否や、未だ必ずしも無しと断定すべきにあらず。
郡内に於ける貝塚の跡としては、鶴瀬村鶴馬に貝塚と称する処あり。 川越町小仙波に貝塚と称する処あり。 甲は土地水田中に突出したる高台にして、今も僅に貝殻を出し、石器土器の類も付近に存することありと云ふ。 乙は土地高台を出てたる低地に当り、今は貝殻等殆ど見る能はずと雖、貝塚たりしこと事実なるが如し。
竪穴の遺蹟としては、川越小仙波中院及東照宮付近に、曽て連続して数多の土穴開きたりしことありと云へど果して然るや否や。 四十三年仙波村大仙波に発見せられし竪穴の如きも亦未だ疑問に属す。 其他此類の穴は往々にして各地に存在することありて、宮寺村地方にも若干の土穴ありしと云ふ。
石鏃は郡内南部地方比較的多く、堀兼村(東三ッ木、上赤坂)、小手指村(上新井、北野)三ヶ島村、宮寺村、山口村、東金子村、金子村等には往々にして頗る之を出す所あり。 西北部地方に至ては川角村(川角字玉林寺辺)あり。 入西勝呂等も曽て発見せられたることありとかや。
其他の石器には石剣石斧の類ありて其数决して多からずと雖、山口村中氷川神社の付近より四五個、川越町小仙波より二個、高萩村より数十個は正に出たること疑なく、大抵畑を穿りこと二三尺にして見出せるもの多し、其他書に出てたるものによれば尚数個所あり。 又往々にして神社の神体として、石剣等を祭れるを見る。 郡内には未だ大里郡吉見村の根岸氏の如き、採集家を見ず。 又遺物も比較的少しと雖、毛呂村岩井平山氏、高萩村岡野氏には稍集れり。
思ふに当時にありては、今の洪積層地、即ち高台地方は勿論陸地にして、沖積層地、即ち低地には或は河道あり、沼沢あり、東南部今の荒川沿岸地方の低地の如きは一部海水の湾入し、来れる処もありしが如し。