福原村
総説
現状
福原村は川越町の西南、大凡一里半の処にありて、北は仙波、大田二村、東は高階(タカシナ)、大井二村、南は三芳、富岡二村、西は堀兼、日東二村に接壌し、些少の高低ある外、土地概して平坦也。
川越、所沢街道、新河岸入間川街道、新河岸狭山街道は村内に於て相交はり、不老川は堀兼より来り、同じく堀兼より来れる『窪の川』と東境に合して直に高階村に入る、両川並びに川幅二間弱、水屡ゝ絶え、時に甚しく増す。
此村水田無く、陸田及森林多し。
麦、茶、豆、甘藷の産あり。
其他の野菜類も大低皆豊富なりと云ふ。
近年に至り養蚕も行はる。
今福、中福、砂久保、上下松原、下赤坂の六大字に分れ、戸数五百十、人口三千四百二十七。
沿革
村の歴史は極めて新しく、江戸時代のはじめ、新に開発せられし以前に当ては、茫々として際崖を知らざる武蔵野の一部たりし也。
即ち砂久保は正保年代より開け始まり、今福、中福は承応年代より開け始まり、下赤坂は万治年代より開け始まり、而して上下松原も又此等より遅からず、遠からざる年代を以て開け始まり、延宝三年に及て一斉に松平伊豆守の検地を受けたりしなり。
正保は三代将軍の治世に当り、承応、万治、延宝はみな四代将軍の治世と註せらる。
それより以来戸日漸を以て加はり、土地愈ゝ耕されて、以て今日に至れり、然れども江戸時代以前、曽て一たび村落の存在したることありや否や。
或は曰く『東西に連れる人家ありき』と。
今も古土器の少しく出づる所ありとかや。
且村内に鎌倉街道の跡あり。
(下赤坂にあることは新風土記にも出て、今福に存することは同地の人より聴けり)蓋し鎌倉乃至室町時代に於ける古道ならん。
従て此道の近傍、曠野の中に小庵あり、若くは若干の人家存せしものか。
又陸田の中往々古墳あり。
其既に破壊せられたるものゝ跡よりは古器の碎片出づることありと云ふ。
江戸時代は全村常に川越領なりき。
但下松原と下赤坂とは幕末の時松平大和守に随て前橋領となる。
故に維新以来は川越藩、前橋藩相並び、次て川越県、前橋県相並びたり。
入間県(今福砂久保は一大区三小区、他は三大区六小区)に入りし後他村に準す。
十七年甲は砂新田連合、乙は下赤坂連合に入り、二十二年福原村となる。
今福は村の北及西北に位し、新河岸、入曽街道の沿道を主として、其付近に散在せる一大部落也。
街道に連れる人家は悉く北側に一列をなし、其長さ二十町を超ゆ。
之を宿と名く。
宿の北、所謂「窪の川」の近辺に散在するを中台と云ひ、宿の南東、砂久保の方に混入せるを原となす。
各字又各ゝ小区あり。
平野区北野区の如し。
今福(宿と原)の人家百五六十戸、中台の人家約四十、大字今福を総計して二百戸内外也。
蓋し福原村の一半を占めたりと云ふべし。
風土記によれば、此地承応年中近村大塚新田の民佐左衛門と云ふもの首として開墾せる所也。
然るに村の草分と称するもの別に尚一家あるが如し。
奥富より来て、原の平野区に居を構え、近傍を開発せりと云ふ。
佐左衛門は即牛窪氏。
今本系絶えたれども、家名依然たり。
平野に拠れるは志村氏、尚平野区に拠て、土地の古実家也。
家に検地時代の文書を蔵すること多し、それより山口氏は山口村より来て、人家三軒となり、十六軒となり.三十六軒となり、三十六軒に止ること久しかりしが、松平大和守の頃百九軒に達し、今は大約二百戸内外を有するに至れりと云ふ。
宿の東南、原の平野区にあり。
境内狭けれども、老梅二四本、檜樅之に交はり、古色深き一小社也。
拝殿荒廃し、土地低平陰湿なるも、寧ろ周囲に適合せり。
拝殿の後、小丘の上一小石宮を置き、牛頭天王を祀れり、伝へ云ふ。
往昔此付近の地、之を所有するものに必ず災害あり。
之を以て人々相計り、遂に牛頭天王を此地に祭り、付近一帯を社領となせり。
其後戦争あり(年代は勿論茫漠)疫病流行して、戦士倒るゝもの多かりしかば、此社に祈願して、難を免るゝを得たりと。
抑ゝ此社何れの頃に設けられたるか、今知るに由なし。
今の社殿は元治慶応の頃造営せられしものと覚し。
社領も今や多くは共有地となり耕作に附せられ、区名を採て平野神社と名く。
但一般には尚「天王様」と称せらる。
平野神社の南方、陣所蹟は砂久保分に入れり。
松一本特に拔んずるを見る。
今福の昔三十六軒時代に於て、鎮守を設くるの必要上勧請したるものにして、或は大塚新田天神社よりせりと云ひ、或は奥富梅ノ宮よりせりと云ふ。
宿の中央に位し、南大塚及大塚新田に出づる道路に沿えり。
今は牛頭天王を合祀し、今福の鎮守たり。
(中台を除く)、社殿清素、境内高雅也。
村社に列す。
天満宮の南に当り、其境内を借りて設立せる所なりと云ふ。
されば其開創の新しきこと知るべし。
天台宗にして、川越小仙波中院の末寺也 梅雲山観窓寺(風土記には桜雲山寛窓寺とせり。
誤也)と称す。
境内に観音堂あり。
妙見院は実に福原村に於ける唯一の寺院也。
此を除ては広き福原村中又一寺なし、故に村民の葬礼は川越、大塚、大仙波、亀久保、大袋新田等の諸寺に依ること多しと云ふ。
川越所沢街道より宿に入らんとする近辺より往々古土器古瓦の類出
づと云ふ。
伝ふる所によれば此辺曽て寺院ありしならんと。
然も年代遼遠、跡を尋ねるに由なき也、(但土器は中古のものならんと云ふ)此北方街道の坂に係る所、西に当て、長楕円形の古墳あり。
之を旗塚と云ふ。
但此辺、林中、畑中、共に古塚存することあり。
字中台にあり、街道の東に位し、一丘の上にあり。
其丘高三丈、項上殆ど正円形にして、直径六七間、中腹に御岳社あり。
松、樅の大木、若木と相雑はり、境内大に幽邃也。
山上の社殿亦之に適へり。
村社、中台の鎮守たり。
或は曰く。
中台の漸く開け始まりし頃に当ては、此丘、甚だ小、唯稲荷の小祠あり而して、実に武蔵野の境塚たるに過ぎざりし也。
然るに中台の漸く人家加はるに従ひ、八雲神社を此処に勧請し、丘を高くし、殿を建てたるなりと。
此事遂に今福、中台不和の因となりしが、今は両部落相合し共に大字今福と称せらる。
砂久保は今福の東に当り、高階村砂新田に接近せる一部落にして、土地稍低し。
東西八町南北四丁余、南方に飛地あり。
今福の原と境界錯綜せり。
戸数二十八九、恐くは三十に満たざるべし。
此地天文十四年上杉憲政、河越城攻撃の時、陣を設けし処と称せられ、今に其蹟も存すと云ふ。
風土記砂久保村小名の条に、竹原と記し、下に「里人の説によるに村内を概したる惣名なりと云へば砂久保村の開けざる前原野なりし時の名と見ゆ。
小名とは云ひ難く、村の古名とも云ふべきか」と註せり。
砂久保村今も別名を竹原と云ふ。
但土人の発音タケハラときこえずタカラときこゆ。
砂新田に出づる街道の東端に位す村社也。
村の南方に位し、平野神社より四五町隔たれり。
然れども是れ後の読書家が定めし処にや。
風土記に曰く。
今世に聞へし河越夜軍の時の陣跡…定かならず。
小田原記等を見るに、天文十四年九月二十六日上杉兵部大輔憲政八万余の大軍を将て、砂窪に旗を立て、先勢をして河越を攻めしむ。
又古河の睛氏は憲政に加勢として同き十月二十七日河越に出馬ありて両軍をもて攻戦すと雖、城主北条上総介綱成大剛の勇士にて、僅に三千の兵を以て昼夜防ぎ戦ひ、明る十五年四月に至りても尚落城の色もなかりしが、されども兵粮乏しくして、饉飢に臨める由北条氏康伝聞て、乃ち八千余騎を率し、同月二十日の夜半、砂窪の陣を襲ひ討ちしに、憲政の軍勢大に敗北せし由、載せたり。
此砂窪は即当村の事なり。
今土人に問ふに陣せし所及合戦などの事凡て伝るとなし。
是前に云へる如く、此辺元広野なりしを、近き世に開きし村なれば、古の事は伝へざるなるべし。
中福は今福の南に連り、東西八町南北之に適ふ 村役場及小学校此地にあり。
新河岸狭山街道が川越所沢街道と交叉する所より西南に人家連ると十町、之を字裏側(ウラガワ)と云ひ、其南に当て、里道に沿へる人家の一群を芝間(しばま)と云ふ。
戸数九十五六。
字芝間にあり、近時上松原の稲荷をも合社し、両村の鎮守とす。
芝間にあり。
裏側にあり。
下赤坂は中福の東南に按続し、川越を去ると二里余、人家川越所沢街道の東に連ると、十二三町、其数七十戸内外と称す。
昔は武蔵野の原なりしを、万治三年下野国佐野の人石川采女と云ふ者、来て開墾を始めたりと云ふ。
然れども下赤坂の南方、上富下富に至るまて、二十町四方の原野は今も雑木繁茂し、土人之を呼て大野と云ひ、又大野ヶ原(おのぱら)と云ふ。
元一帯の芝地也。
然れども大野原を以て万葉に詠へる伊利痲治乃於保乃我波良に該当すとなすは、如何にや。
村の中央より南に入ると二町、小丘の上にあり。
此村の鎮守也。
上松原は下赤坂の東に隣り、大井村亀久保に近し。
東西八町、南北二三町、人家三十五六戸あり。
幕末の頃は二十四五戸に過ぎざりきと云ふ。
今中福の稲荷へ合社せり。
下松原は上松原及下赤坂の北、中福の東に連り、東西十七八町、狭長なる部落
也。
戸数四十五六、幕末の頃四十戸許あり。
村社にして、此村の鎮守也。