日本太古の原住民族に関しては、未だ確乎たる定説あるを知らずと雖、我大和民族に先て、アイノ民族か此土に住したるは疑ふべからず。
然れどもアイノ族は古史に見えたる土蜘蛛なるものに該当するや否や、乃至アイノ以前例へばコロボックルと称するが如き民族ありて、石器を使用したるや否や。
議論の甚だ定らざる所なりとす。
今日の研究によれば、多数の学者は、石器時代に於ける我国の原住民は一種のアイノにして、国史の開くる頃に当ては稍進歩したる程度に達し、彼の土蜘蛛の中には少くとも、当時のアイノ民族を包合せりとなす。
石器時代の原住民は概して漁貝を以て事となし、住民は竪穴小屋に住したるものありしが如し。
或は貝類以外の食物を取りしものあるや否や、竪穴以外幼稚なる住居を営みしや否や、未だ必ずしも無しと断定すべきにあらず。
郡内に於ける貝塚の跡としては、鶴瀬村鶴馬に貝塚と称する処あり。
川越町小仙波に貝塚と称する処あり。
甲は土地水田中に突出したる高台にして、今も僅に貝殻を出し、石器土器の類も付近に存することありと云ふ。
乙は土地高台を出てたる低地に当り、今は貝殻等殆ど見る能はずと雖、貝塚たりしこと事実なるが如し。
竪穴の遺蹟としては、川越小仙波中院及東照宮付近に、曽て連続して数多の土穴開きたりしことありと云へど果して然るや否や。
四十三年仙波村大仙波に発見せられし竪穴の如きも亦未だ疑問に属す。
其他此類の穴は往々にして各地に存在することありて、宮寺村地方にも若干の土穴ありしと云ふ。
石鏃は郡内南部地方比較的多く、堀兼村(東三ッ木、上赤坂)、小手指村(上新井、北野)三ヶ島村、宮寺村、山口村、東金子村、金子村等には往々にして頗る之を出す所あり。
西北部地方に至ては川角村(川角字玉林寺辺)あり。
入西勝呂等も曽て発見せられたることありとかや。
其他の石器には石剣石斧の類ありて其数决して多からずと雖、山口村中氷川神社の付近より四五個、川越町小仙波より二個、高萩村より数十個は正に出たること疑なく、大抵畑を穿りこと二三尺にして見出せるもの多し、其他書に出てたるものによれば尚数個所あり。
又往々にして神社の神体として、石剣等を祭れるを見る。
郡内には未だ大里郡吉見村の根岸氏の如き、採集家を見ず。
又遺物も比較的少しと雖、毛呂村岩井平山氏、高萩村岡野氏には稍集れり。
思ふに当時にありては、今の洪積層地、即ち高台地方は勿論陸地にして、沖積層地、即ち低地には或は河道あり、沼沢あり、東南部今の荒川沿岸地方の低地の如きは一部海水の湾入し、来れる処もありしが如し。
大和民族は崇神天皇の御宇より、漸く地方の経略に着手し、景行天皇の御宇、日本武尊の東夷征伐あり、次で天皇の東国を巡行し給ふあり。
御諸別(ミモロワケ)王は上野に治し、常陸の勿来、磐城の白川の二関は東国の関門となり、関東の地方、夷狄の禍少きを得たり。
次で成務天皇は地方制度を整理し給ひ、兄多毛比命を無邪志国造とす。
先是、崇神天皇は、知々夫彦命を以て知々夫国造とせるを以て、当時武蔵は知々夫、無邪志の二国なりしを知るべき也。
既にして崇峻天皇の頃より国造等の監察を目的として設けられたる国司の制は、大に進み大化の改新に至て、遂に国造を以て、寧ろ之を郡領とし、大抵古の数国を合して一国を作り、守介掾目の職を定めたり。
此に於て今の多摩郡府中町は武厳国の国府となれり。
入間郡は和名抄に「伊留末」と訓す。
万葉集武蔵国歌に「伊利麻路乃云々」とあるは、入間路の義なるべく、「イリ」、「イル」、古、相通用せしものなるに似たり。
入間郡の創立は何れの頃にあるか、明ならずと雖、元正天皇霊亀二年五月辛卯、駿河甲斐相模上総下総常陸下野七国の高麗人千七百九十九人を武蔵に遷し、高麗郡を置きしこと見えたり。
之れ今の高麗村付近一帯の地なりとす。
然れども当時の郡界の如きは殆ど精密なるものにあらず。
其後も屡変動せるものゝ如し。
続日本紀称徳天皇神護景雲二年七月壬午、武蔵国入間郡の人正六位勲五等物部広成等六人、姓入間宿禰を賜はる。
光仁天皇宝亀三年武蔵国入間郡の人矢田部黒麻呂、其戸徭を免ぜられ、以て孝行を旌はさる。
同八年武蔵国入間郡の人大件部真赤男、西大寺商布一千五百段、稲七万四千束、墾田四十町、林六十町を献ぜしかば、其身既に死してより、外従五位下を追贈さる。
蓋し物部、大件部、矢田部の如きは古に於ける入間郡の盛族にして、偶々物部は政治上、大件部は経済上、矢田部は道徳上の力によりて古史に名をあらはされたるがために、後世に伝はれるのみ。
其他無名の盛族なきにしもあらずとす。
而して此等の諸族は夫々多数の部族を従へ、氏神を携へて、郡内に移殖し、繁昌し力るものゝ如し、延喜式に出でたる諸社の如きは恐らく此頃の盛族に関係あるものるべし。
高麗氏の一族に至ては高倉福信あり。
其祖を福徳と云ふ。
福信に至り、聖武天皇の寵を得て、従四位紫微少卿に至り、高麗朝臣の姓を賜はり、信部大輔に遷り、従三位を授けられ、武蔽守近江守を歴任し、高麗を改めて、高倉と称す。
桓武天皇延暦四年上表して、身を乞び、八年八十一歳にして薨せりと云ふ。
開発の勢は平安朝に至て益進み、川越喜多院は淳和天皇天長七年に創立せられたりと称し、十年には多摩郡との境に当て、悲田処の設けられしこと、続日本紀に見えたり。
悲田処は即ち施療院にして、養育院を兼ね飢病者及棄児を収容し、仏説に動機を発したりと雖、蓋し一種の社会政策也。
文徳天皇嘉祥三年六月己酉詔して武蔵国広瀬神社を官社に列せること見ゆ。
広瀬神社は水富村にあり、式内社也。
八幡宮は此頃頻りに信仰せられ、神仏は融合の端を発し、而して此等の傾向は首都より漸く移て東国にも及ばんとし、而して郡内の地方には後年武蔵七党乃至坂東八平氏に数へらるべき諸氏族蔓延の端緒既に開けつゝありき。
而して私田開墾、私権拡張の弊は、国司遙任、国司交代の紛害等を相件ひ、民人塗炭に苦しみ、不平の徒所在に出没し、武人の要求漸く切にして、地方の豪族が史上に頭角を擡ぐべき時期は来らんとす。
天慶に於ける将門の乱は藤原秀郷、平貞盛の勢力を東国に延し、其同族にして先是、東国に土着せるものも益々繁栄し、長元に於ける平忠常の反は源頼信の勢力を東国に賦植し、前九年後三年の役後に至ては、源氏の勢牢として抜くべからざるに至れり。
保元平治の二役、源氏の旗風振ふ能はずして、天下は一たび平家の有に帰し、源家層恩の東国武士も稍平氏の門に馳せたるありと雖、多数は依然として、剛健なる気象を失はず、所謂東国武士の本領を純に保存して、而して一意伊豆の天に其所謂「佐殿」の起つを待ちたりき。
既にして頼朝兵を起し、総武を席捲して、相模に入らんとするや、東国の将士争ふて之に馳す。
郡内諸豪の如き亦其中にあり。
かくて鎌倉の覇府成り、世は将軍政治、即ち東国武士に養はれたる素朴純潔なる気象を以て、浮華輕跳にして危険なる平安朝文明矯正の時代となれり。
王朝時代の国守郡守等にして地方に留りしものは、庄園の制を利用し、戎器を蓄へ、家人郎党を養ひ、村里の政を行ひ、牧場を監し、或は京師に出てゝ大番を勤め、地歩を漸く固くして、一族頗る蔓延せり、其武蔵にありしもの、即所謂武蔵七党にして、横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹治の七族の如き是也。
七党にして入間郡に拠地を占めしものは、村山、丹治、児玉の三党とす。
村山党は平氏にして、秩父家(畠山重忠等一門)と同族也。
村山貫主頼任に始まり、子孫多摩郡より、入間郡南部に散在し、大井、宮寺、金子、山口、黒須、久米、仙波、広屋、荒波多、難波田等の諸分派あり。
丹党は武蔵守多治比県主に出て、郡内加治郷の如きは其中心地たりしものゝ如く、 青木、小島(?)、志水(?)柏原、高麗、加治、判乃等の分派ありて、秩父児玉比企大里諸郡にも及ベり。
児玉党は武蔵守有道惟行に出て、児玉郡を中心として、郡内には入西、浅羽、堀籠、ここ ?)越生、大類等の分派来り住せしが如し。
右の外坂東八平氏、秩父家の一派に川越氏あり。
藤原季綱に出でたる毛呂氏あり。
日蓮上人に関係ある宿谷氏も来り住せりと称す。
何れも同名の土地を根拠として、夫々付近に勢力を振ひたるに似たり。
頼朝鎌倉に拠り、義仲京師にありて不和となるに及び、義仲の子清水冠者義高鎌倉を遁れ、入間川に至て遂に討たる。
其後七党以下諸豪族の力により、鎌倉時代の幕開けて、天下武門の政治となり、頼朝義経の不和は川越氏の地位を甚だしく不可ならしめたりと雖、其後家名を断絶せずして南北朝の頃に及ぶを得たり。
先之建久四年那須野に狩するの途、頼朝諸将を卒て、入間野に追鳥狩を行へることあり。
其後富士野に狩す。
当時幕府は平穏無事にして、頼朝の黄金時代たりし也。
頼朝の復古政策、鎌倉幕府の復古政策は時代の精神に伴ひ敬神崇仏の信仰を進め、殊に社寺の造営を盛にし、八幡神社は殆ど源氏乃至源家の武士の氏神の如く、豪族の館には又其傍に仏寺の建立あるを常とせり。
禅、浄土、日蓮等の新宗数勃興して、日本に於ける宗教改革とも称すベき時期は此頃なりし也。
北条氏天下を掌握するの前後、七党の中、聊か断絶或は興隆あり。
泰時に至ては武蔵野の開拓に着手し多摩入間両郡の如き頗る面目を改めたるものゝ如く、之を要するに鎌倉時代は北条氏善政の下に郡内の地方も平穏にして比較的繁栄せしものゝ如し。
北条氏の時代漸く傾きしも、後醍醐天皇の雄図一たび挫け、関東の大軍は金剛山こみたりしが、源家の名門として、当時に重きを成せし足利尊氏は漸く志を帝に傾け、而して新田義貞は上野に兵を起し、鎌倉に向て進発せり。
太平記の伝ふる所によれば、義貞は五月八日義旗を立て、九日武蔵に出て、所謂鎌倉街迸を進て、十日夕刻には入間川付近に達せしものゝ如く、北条氏の将桜田貞国等と十一日小手指ヶ原に戦ひ、勝敗決せず、十二日に至て、貞国敗れ、加治二郎左衛門等先づ走りしと雖も、十五日分陪に戦ふに及び、義貞敗軍して掘金に退かざるを得ざるに至り、偶々投ずるものあるに依り、十六日早朝貞国の軍を突て、大に之を破り、急馳追撃して十七日藤沢に迫り、十八日遂に鎌倉に至りしが如し。
然れども太平記の載する所聊か疑ふベき点なきにしもあらず。
或は極端の論者は此合戦は武蔵野の蜃気楼なりと云へり。
今は太平記に従ヘり。
北条氏滅び後醍醐天皇一統の治世となりしも、天下不平の徒所在に出没し、建武二年七月十四日北条時行は兵を信州に起し、諏訪滋野の諸族に奉せられて、二十二日武蔵に入り、足利直義が派遣せし渋川刑都、岩松兵部等の軍を破り、女影ヶ原、小手指ヶ原及府中に戦ひ、破竹の勢を以て鎌倉に突進し、直義追へり。
之を建武二年の役とすベし。
一般には時行の乱を中先代の乱と呼ぶ。
其後尊氏鎌倉に叛し、義貞之を討て勝たず。
尊氏兵を将て京師を奪ひ、一たび九州に追はれしも、後大挙して東上し、正成戦没し、義貞破れ、南朝の勢危急なるものあり。
此に於て延元二年北畠顕家は義良親王を奉して、奥州より南下し、利根川に戦ひ、殆武蔵を席捲して、鎌倉を圧倒し、更に西に向ふ。
此時の合戦は直接郡内に及ばざりしと雖、八州の諸豪響応し鎌倉の足利義詮殆ど顔色無かりし也。
又太平記によれば新田義貞の次男徳寿丸上野に起て、兵を入間川に進め着到をつけたること見えたり。
其後北畠親房は東国の経略に従ひしも、高師冬等に妨げられて、志を伸ふる能はず。
既にして尊氏直義不和の事あり。
直義鎌倉に拠りて叛す。
尊氏之を伐たんがため、正平六年十一月関東に向ひ、遂に駿州薩垂山に囲まれしが、十二月下野の宇都宮氏は尊氏に応ぜんがため、武蔵に進出し、那波庄の戦あり。
先是、高麗彦四郎経澄等は宇都宮軍別働隊の一将として、十二月十七一日鬼窪(南埼玉郡)に旗を挙げ、十八日出発して、十九日羽禰蔵に難波田九郎三郎等を伐ち、其夜進て阿須垣原に陣し、甚だ戦功ありしこと新堀村町田氏文書に見ゆ。
羽禰蔵は羽根倉にて今宗岡村の小字なるベく、阿須垣原はそれ阿須崖原か、其時の敵手は武蔵守護代にして、直義方なる吉江新左衛門ならん。
正平六年十一月尊氏関東へ下るに臨て、仮りに和を南朝に請ひ、南朝も諜る所ありて之を許す。
既にして尊氏鎌倉に入るに及て、南朝の将士は東西同時に起て、尊氏及義詮を伐てり。
正平七年閠二月武蔵野の合戦は太平記にょれば、先是久しく上信越の地方に隠れし新田義宗、義興、義治は大命を奉じ、三浦石堂等旧の直義派の内応を得て、閠二月八日西上野に出て、やがて武蔵野に殺到せり。
然るに尊氏十六日を以て鎌倉を出て、武蔵に入り、三浦石堂の内応を知り、 二十日を以て小手指原に戦ひ、義宗一たび勝て、尊氏に迫りしも、後援続かず。
義興義治の軍は三浦石堂と合して鎌倉に向ひ、義宗遂に笛吹峠に退き、二十八日尊氏と戦ひ、笛吹峠を退却す。
此役宗良親王も後より進て、義宗の軍に会せしが如し。
然るに更に稍々正確なる史料によりて、太平記を批判するに、頗る修正せざるべがらざる所あるものゝ如く、議論紛々たれども、大日本地名辞典に載せたる吉田博士の断案は頗る傾聴すべきものあり。
依て大体其説に従て、太平記の記事を是正し置かん。
正平七年閠二月十五日(園太暦に従ふ)義宗等義兵を上野に挙げ、翌十六日武蔵に進出し、大凡府中付近と覚しき処より十九日附注進状を発す。
但其記す所誇大なるやの嫌あり。
一方尊氏は十七日(町田文書其他の軍忠状に従ふ)鎌倉を発し、狩野川即ち今の神奈川と信ぜらるゝ処に陣し、十九日谷口に進む。
然るに義宗の軍は此日義興義治をして鎌倉に向はしめ、義宗狩野川に進まんとしたりしが、二十日尊氏の軍府中に進出し来りしかば、義宗之を伐て人見ヶ原(若くは金井原と云ひ、若くは国府原と云ふ。
多摩郡にあり)に戦ひ、利あらずして、入間川に退く。
而して義興義治の軍は三浦石堂等と合して、二十三日鎌倉を取る、義宗宗良裂王を奉じて入間川に陣し、尊氏府中近傍に陣し、対峙すること一週日、二十八日に至て両軍小手指ヶ原に戦ひ、義宗退き、尊氏之を追ふて、漸次入間川原高麗原等の戦となり、遂に義宗志を得ずして、南朝の荘図空しく武蔵原頭の露と消えたりし也。
然れども小手指の一戦、太平記叙する所の花一揆の史話の如きは優雅荘烈、伝へて以て後世の士気を鼓舞するに足る。
尊氏武蔵野に克ちて、鎌倉を恢復し、二子基氏を残して西上せり。
基氏は戦勝の勢に乗じて、関東の将士を撫し、比較的よく士心を得たり。
曽て入間川に営し、入間川殿と称せらる。
正平十三年新田義興を矢口に誘殺し、十六年畠山国清の叛を平げ、十八年(北朝の貞治二年)八月芳賀入道禅可の叛を平げんがため、進発し、苦林野及岩殿山地方に於て戦ひ之を破り、与党を鎮定せしが、二十二年二月宮方平一揆、兵を起して川越館に拠る、基氏征せんとして病あり、依て上杉憲顕、基氏の子氏満を奉じて、川越を攻め、閠六月十七日に至て之を陷る。
蓋し宮方平一揆は所領の不平を直接の動機として発せるものゝ如く、川越氏の如き、山口氏の如きは其主なるものなりしに似たり。
而して基氏は既に四月二十六日を以て卒したり。
基氏卒して氏満後を嗣ぎ、幼なりしと雖、補佐其人を得て幸に大過なく、関東に於ける足利氏の基礎牢乎として抜くべからざるに至れり。
唯一の小山の反あり。
氏満屡々鎌倉を発して、府中に陣し、或は進て村岡(熊谷町の南)に陣せしことあり。
小山の乱は南北朝を終り、応永四年に至て全く平定せり。
氏満応永五年卒し、満兼立ち、自ら公方と称し、執事を管領と呼ばしむ、此時に当て上杉氏既に山内及犬懸の二家あり。
既にして満兼応永十六年卒して、子持氏立つや、驕傲にして軽躁、二十三年に至て遂に犬懸禅秀(上杉氏憲)の変あり。
此時入間川は数次合戦若くは対陣場となれり。
然るに室町には義持及義教頗る関東の権を殺がんの志あり、持氏は又義教の将軍たりしに平ならず。
此に於て上杉憲実其邑白井に退き、持氏之を攻めしも、京師の討伐軍来るに及て、持氏遂に勢屈して自刄す。
時に永享十一年二月十日也。
而して其子春王等結城氏に依りしものも、嘉吉元年に至て咸捕へられ殺さる、上杉は犬懸倒れて扇谷新に起れり。
此後関東は主なかりしかば、宝徳元年上杉房定等、持氏の遺孤永寿王を推戴し、之を成氏と称す。
上杉憲実遁世し、扇谷持朝入道して河越館に退く。
成氏上杉氏を以て父の仇とし、里見結城諸氏を用ゐしかば、先づ上杉氏の臣長尾太田との軋轢始まり、次で上杉氏も成氏と対抗し、争乱数年成氏遂に古河に走り、康正元年より三年に至るまで分陪、岡部、騎西、市川、深谷等諸処に戦あり。
長禄元年に至て扇谷持朝は河越に築き、太田資清は岩槻に築き、太田持資は江戸に築き渋川義鏡を蕨に奉し、次で足利政知を堀越に戴きて古河に対するの計を為せり。
室町幕府は屡々古河討伐の命を関東奥羽に出せり。
かくて上杉の宗家山内は上野白井に根拠を設け、藤岡、八幡山、深谷等の諸城を支持し、扇谷は河越に居り、岩槻、蕨、江戸等の諸城を有して、古河に備へ、古河は羽生、忍、騎西、菖蒲、関宿等に構へ、而して両軍の対抗陣地は、白井と古河の中間、児玉郡東五十子たりし也。
之を以て文正元年の頃第一次対陣あり。
文明三年第二次対陣あり、伊豆方面にも戦あり、文明九年第三次対陣あり。
既にして山内顕定の臣長尾景春鉢形に拠り、南武の豊鳥、練馬、相模の小沢、横山、小机、丸子、平塚、溝呂木、小磯等と通じて上杉氏に叛し、一時頗る勢力を振ひしも、太田持資等克て之を平げたり。
此役の始川越は太田図書助資忠、上田上野介松山衆を籠め、長尾方は若井(?)に陣して之に対し、やがて勝原(ヌグロハラ?)に戦て長尾方敗れたり。
而して始終の経過行動に見る時は川越は扇谷の策源地たりしの観あり。
而して此時上杉は古河と和したり。
江戸を築城し、長尾の乱を鎮定し、雄名を関東に轟かしたる太田道灌は後兵を下総に用ゐて、益々偉功を奏し江戸、川越を堅くして秘に山内の変に備へしが偶々扇谷定正の忌憚する所となり文明十八年七月遂に其殺す所となれり。
而して翌年より山内対扇谷の激裂なる対抗始まり諸所に合戦あり。
扇谷定正は河越に子朝良及曾我兵庫頭を置き、江戸に曾我豊後守を置き小田原に大森式部を置て山内に当らんとせり。
河越に対して山内が上戸に砦を設けたるが如き、此時也。
長享二年定正松山城に拠り顕定兵を卒て之に向ふ延徳二年定正古河公方の援を得て高見原(比企郡)に顕定を破り、明応三年定正武州関戸の塁を破り、伊豆の北条長氏と久米川に会し、共に兵を卒て高見原に陣し、顕定と荒川を隔てゝ相対す。
而して定正陣中に没せり。
定正が長氏の援を得たるに当て、顕定は政氏の援を得たると覚しく、明応四年十月政氏顕定を救けて高倉(鶴島村)に陣し、五年五月柏原に陣す。
蓋し顕定川越を攻め、政氏此処に拠りて相州地方よりの来援に備へしものならん。
永正元年九月顕定復川越を攻む抜けず依て江戸を囲む。
今川氏親北条長氏兵を府中に出して扇谷を救ふ。
其先鋒増形(日東村)に陣せりと云ふ。
顕定之をきゝ軍を返して立河原に戦ひ敗蹟せり。
かくて道灌没後、両上杉互に争ひ約二十年を経て永正二年相和したる時は、北条長氏既に小田原に拠りて、勢威漸く旺盛ならんとす。
北条長氏は延徳三年堀越茶々丸を殺して伊立を取り、明応四年二月、大森実頼を訛て小田原を奪ひ、永正元年九月今川氏親と立川に扇谷朝良を扶けて、山内顕定を破りしが、其後専ら相模の平定に力を用ゐ、山内は越後に長尾の叛あり、古河は政氏高基父子の不和あり、高基は北条氏に依らんとし政氏は里見上杉に依る。
而して政氏久喜に退隠せり。
永正十六年長氏卒し、氏綱嗣ぎ、鋭意武蔵の攻略に着手し、一年を隔てゝ、大永元年には婚を古河高基の子晴氏に通じ、両上杉の形勢を窺ふと切也。
既にして大永四年江戸城の将士内応せるものあり、氏綱直に赴て之を伐ち、江戸高輪に戦て、朝興を破り、城に入るを得ずして川越に奔らしむ、其後朝興恢復の師を起せしも志を得ず、天文六年川越に卒す。
子朝定立ち、叔父朝成之を扶け、勢力の恢復を計り、先づ深大寺城を築て北条氏に当らんとせしが、氏綱急に江戸より川越に向ひ、上杉氏の軍と三ッ木ヶ原(堀兼村)に戦ひ、大に之を破り、朝成を擒にし、朝定を走らしむ。
朝定川越に入りしも支ふる能はず、松山に逃れ、其城将難波田弾正父子等と川越を復せんとせしが、反て氏綱に囲まる、然も氏綱急に降し難きを見て、去れり。
山内憲房は鉢形にありて扇谷の後援に任ぜしが、大永五年病没し、遺臣古河政氏の子息寛を迎へて主とせしも、永続せずして止み、憲房の子憲政嗣ぐ。
憲政は放縦なり。
天文六年川越陥り、上杉氏危急なるを見、恢復の師を出すに決し、切に古河晴氏を説きて北条と絶たしめ、天文十四年九月憲政朝定の兵八万川越を囲み、砂窪(福原村)に陣す。
十月晴氏も亦至る。
翌年四月北条氏康八千の兵を以て川越に来り、上杉の軍を夜襲して、大に之を敗り、城兵は睛氏の軍を突けり。
朝定、難波田父子等戦死し、憲政平井に逃れ、晴氏古河に走る。
氏康勢に乗じて松山を屠り、勢威関東に振ふ。
秩父の藤田氏、瀧山の大石氏等咸氏康に属せり。
独り岩槻の太田三楽志を上杉氏に寄せ、一たび松山城を恢復せり。
かくて天文二十年氏康上武の境に迫るに及び上杉憲政越後に逃れて、長尾謙信に依りぬ。
上杉氏殆ど滅べり。
氏康は更に古河公方、里見氏等に対して夫々手段を講ずる所あり。
又諸子を各地に派して、小田原と気脈を通ぜしめ、かくて関東の西半を奄有したりしも天文の末より弘治永禄に至るまで、甲越両州の勢力亦関東に及び、上武の地方は屡々三氏抗争の地点となり、松山、羽生、忍、深谷諸城の如きは所属一定せず。
天文二十三年氏康は信玄と結びて謙信に当り、謙信も関東に下り、一たび小田原を囲みしも、志を達せざりき、永禄十二年に至り信玄は盟約を破棄し、八月兵を上野に入れ、武蔵に用ゐ、鉢形を攻めて、更に小田原に向て南下し、郡内の地をも通過せり。
而も小田原陷らざりき。
かくて上杉北条の連合成りしが、元亀三年に至て復破れ、北条氏は鋭意して上野の蚕食に従ひぬ。
斯の如く辺境には攻争頻りに行はれしも、郡内の地方は天文十五年以来殆ど確実に北条氏の手に保有せられ、庶民太平の善政に頗る繁栄に向はんとしたるものゝ如し、即ち川越城は大導寺駿河守に保有せられ、川越城下町も発達し、柳瀬村城には瀧山城主北条氏照の麾下太田氏あり。
柳瀬川付近の地漸く発展に向ヘり。
其他北条役帳によれば郡内至る所、何れも北条麾下の将士に知行されたりしを知る。
当時入東部、入西部の目あり。
蓋し入間を二分せし也。
而して知行高は貫文を以てあらはせり。
(役帳に見えたる所は各町村の部に出せり。
尚役帳は永禄二年二月頃の現在なるが如し)
天正十八年豊臣秀吉小田原を囲むに及で、川越も柳瀬も共に戦なくして開城せり。
川越の大導寺駿河守は上州松枝城を守り、松枝開城するに及で、川越をも開城せしめたり。
而して七月十九日を以て死す。
其霊牌名細村上戸、常楽寺にあり、墓石もあり。
然も川越容易に降ると雖、松山陷らず、山道口の大将前田利家等之を攻む、越生町上野医王寺には利家陣地たりし伝説あり。