小仙波の草創及発達

仙芳仙人の郷土開創説話

武州入間郡仙波郷は往古海沼にして、民人寄籍の地にあらず、時に神仙あり、仙芳と名く、甞て海頭に来て歎じて曰く、此地古仏説法の霊跡也。 今は滄海漫々たりと。 時に一老翁の卒爾として来るあり。 仙、其何人なるを問ふ。 翁答て曰く、我は龍神の化作する所、此海の主なりと。 爰に於て仙、翁に就て一小地を得せしめんとを請ふ。 翁其広量を問ふ。 仙の曰く、我に袈裟あり。 願くは量 此と斉ふせんと。 翁諾す。 仙即ち袈裟を将て波上に布くに、延て海沼と合せんとす。 翁驚て曰く、今神術の為の故に潭底我居を失ふ。 是を如何せんと。 仙乃ち小池を留て神龍の居を復す。 (今の弁天池是也)又土仏を作て波底に投ずるに海水乾て地忽ち堅牢たり。  云々 とは是れ喜多院縁喜に記す所也。 藍し郷土草創に関する一説話となすべし。

小仙波の付近古代にありては古墳群の存せしものなるに似たり。 今の喜多院境内、慈眼堂の山は、其形状頗る瓢形古墳に彷彿し、多宝塔の存せし台地の如き、入定塚の如きは、其周囲に存する小墳なりしものならん。 其瓢塚たり、古墳群たりしは人類学教室の遺蹟報告にも見えて、瓢塚の形状甚だ大なるは思ふに稍地位あり、勢力ありし人の墳墓たらずんばあらずと雖、其如阿なる人を葬りしやの如きは、到底解决すべからざる問題に属す。 然れども其古く開けて、重きを為せし処たりしは之に依て略ぼ推察するに難からずとす。 尚仙波村大仙波古墳に関する記事を参照して、凡て仙波の地の古く聞けたりしを知るべし。

里人は此中入定塚を以て彼の仙芳仙人に係け、忽ち茲に仙人入定物語を演出せり。 其趣頗る高階村砂新田次兵衛塚の入定物語と類似せり。 其要に曰く、仙既に業を終り、遷化に臨みて、穴を穿ち、里人に告げて曰く、我此中にありて読経せん。 我声絶えたる時は即我が入定の時に外ならずと。 里人、読経の声を聞くと七日にして声絶ゆ。 此に於て之を葬て、墳とし名けて入定塚と云ふと。 蓋し此類の説話は曽て至る処に存したりしが或は往々にして入定塚、入定場の名を存して説話を逸したるもあり。 小仙波及砂新田の如きはよく之を保存し得たるものと云ふべき也。

喜多院の創設及再興伝説

淳和天皇天長七年、慈覚大師、勅命を奉じて、伽藍を小仙波の地に経営し、無量寿寺の号を賜はり、堂後に石刻の一切経を癧め、一小丘を築き、上に二層の塔を造り、(此処を経山と云ふ)左に山王を祀る。 右に白山社を置き、其傍に法華三昧堂を建立し、以て鎮護の道場とせりと云ふ。 其後元久元年兵火にかゝり、寺宇廃すると九十余年、伏見天皇永仁四年に至り、尊海僧正勅を奉じて之を再営す。 正安三年二月東国天台の本山たるべきの勅書あり。 後奈良天皇星野山の震翰を賜ふ。 天文六年の合戦に再び兵火の犯す所となり、為に微々として僅に其燈を掲ぐるのみにして天海僧正に至れりと云ふ。 之を喜多院創設及再興の伝説となす。

恰も此頃、仙波氏あり。 武蔵七党村山党の一派にして、鎌倉時代に其名あらはれたり。 大仙波の条参照すべし。 小仙波大仙波の別は甚だ古く行はれたるものにあらず。

天海僧正と喜多院

天海僧正と喜多院に就ては諸書頗る之を記せり。 慈眼大師伝記の如き、両大師伝記の如き是也。 然れども甚だ誤謬多く、適帰する所を知らざるもの少からず。 抑も天海が喜多院に住するに至りしは一般には慶長四年と称すと雖、仔細に考 ふるに天正十六年慈眼大師初管仙波と記せる仙波川越由来其外見聞記及延宝八年の喜多院縁起の説を以て正しとすべし。 天海は此にありて常陸国信太の不動院を併せ管し、天正十八年十月一日徳川家康に江戸に謁せるものゝ如し。 謁見のと天正日記に見ゆ。 慶長十六年十一月一日家康放鷹して川越に至り、天海之に候す。 家康は因て仙波所化堪忍料として寺領寄附の意思を告げ、十七年四月 十九日天海参府し寺領三百石を寄附せられ、同年閠十月二十日家康復川越に狩して、領主酒井忠利に命じ、喜多院を修造せしむ。 一説に喜多院は此時、星野山の旧号を改めて、東叡山と号し、後上野寛永寺の成るに及て、東叡山を彼に譲りて、旧号星野に復したりと称すれども果して然るや否やを知らず。

慶長十八年八月慈恵堂建立成り、家康来て、論講聴聞す、十九年八月に至て大堂以下成る。 元和二年家康薨じ、久館山に葬り、翌年屍体を日光山に移すに当り、関戸府中を経て、三月二十三日の朝早く武蔵野の草叢を分け、小川、久米川、所沢を経て、仙波の大堂に着き、二十六日まて駐まりて後、伊草、松山を過ぎ日光へ赴きたり。 故に寛永十年正月十三日起工東照宮造営の事あり。 然るに十五年に至り川越に大火あり、火勢小仙波に及び、全山遂に焼土と化せしかば、徳川家光、川越城主堀田正盛に命じ、之を再営せしめ、十七年再び旧観に復す。 本堂、慈恵堂、山王社、多宝塔等厳然たり。 寺院は江戸紅葉山の別段を遷せるなり、此時建てられたる本地堂は明治十年寛永寺に寄附せり。

而して二十年天海寂す。 正保二年慈眼堂を立て、天海の像を安置し、慶安元年慈眼大師と謚せり、寛文元年祭田二百石を加賜せられ、旧領五十石(朱印外)前朱印五百石(駿府記には三百石)と併せて七百五十石となり、小仙波全部及大仙波の一半を領す。 之より喜多院の勢力益振へり。 今慈眼堂に存する天海像は神彩明に院に蔵する界海の東叡山建立に関する文書は史徹墨宝にも出てたり。

中院及南院

中院及南院に就ては其何れの頃より創まりしやを知らず。 一般に伝へらるゝ所によれば、山寺号開山中興等都て喜多院に同じく、北中南三院相並て鼎足の状を為せしも、草創より永禄までは中院殊に盛大にして、其後喜多院繁栄し、中南二院に向ては神領の中三十石を附与するのみとなり、遂に北院の寺中の如き観を呈するに至れりと。 中院は元今の東照宮の辺にあり、依て名けしものゝ如く、南院は明治のはじめ廃寺となれり。

中院に古文書あり。 慶長十二年三月十九日仙波仏地院住僧宝尊を権僧正となすとの宜旨を記せり、書は大日本史料にも載せたり。 之に依れば中院は元仏地院と称せしものなると明也。

其他喜多院の付近には成就坊、仙境坊、広仙坊、星行坊、常蔵坊、明星坊、心鏡坊等あり。 学寮もありしが、今や全く其形跡を存せず。

現今の喜多院及小仙波

現今の喜多院は旧喜多院の本境内に限られ、大師堂、慈眼堂、方丈客殿庫裡、長楼、五百羅漢、経蔵等あり。 正門は東面し、別門は朱塗の楼門にして北面せり。 近来星岳保勝会なるもの組織せられ、一千年来の勝地を後昆に伝へん計画をなし、境内既に半公園化し而して今や諸堂頗る旧観を改めんとするものあり、即ち正門外の多宝塔は大師堂の傍に移り、其付近二三の堂舍新築せらるべく、庫裡の如きは今や全く旧態を改めたり。

東照宮は院の南に接し、一丘の上に位す、曽て輪奐の美全県に冠たりしと称せられし、其社殿墻垣も漸く廃順に傾きかけて、衰草寒烟の趣あり。 古今威たえず。 宮の南に中院あり。 境内静寂、二個の大なる垂糸楼あり。 東照宮の東は南院跡也。 更に喜多院の正門前には旧慈恵堂跡あり。 日枝神社あり。 小仙波の鎮守也。 閻魔堂あり。 喜多院の墓地なり。 喜多院に三代将軍誕生間あり。 三代将軍手植桜あり。 友成の太刀、岩佐又兵衛の三十六歌仙は国宝に属し、其他、屏風二雙、鷹図十二面あり、中院には恵心僧都の二十五聖書あり。 其他宗版和版一切経あり。 庫裡の前に存する鐘は形状甚だ古雅にして、

武蔵国足立郡鳩井郷筥崎山

依悲母命奉鋳也

正安二年庚子三月十八日

沙弥慶願

大工 源景恒

とあり。 里人、天文の戦に上杉軍が小仙波耕地に遺棄し去りたるならんと云へり。 慈眼堂の後方歴代の墓石中二大板碑あり。

院の北には百花園あり。 四時の花卉絶えず。 東北隅に老杉あり。 杉下清泉常に涓出して、泉池の趣頗る愛すベし。

小仙波は即ち大宮及志木街道の要路に当り、人家道を挟て相連れり。 其北に尾崎台あり。 東に貝塚と称する所あり。 宿の出口より東南二三町の間也。 蓋し石器時代人民の遺跡ならん。 今は貝を出さず。 然れども其西南、高台常願寺と称する処より曽て島田石二個を発見したるとあり。 常願寺は之れ同名の寺院の存せし処、今も往々にして其古瓦を見出すと云ふ。 然も寺の年代既に究むベからさる也。

其東南に接して厳島神社あり。 泉池あり。 其南に狼山あり。 其南を向山と云ふ。

更に東方、水田の中僅に葦葭の見えたるは是れ双子池にして其中央今も水深を知らずと云ふ。 里俗旱天に此地に来て雨を乞ふ。 更に東方に南畑陣あり。 南畑の城兵、松山を救はんがために、此地に来り陣し、偶々松山陷ると聞て、引き返せし処なりと云ふ。 蓋し地理にも合せり。 恐くは然らん。

小仙波に古来怪話多し。 此中幾分事実に基けるもあり。 三位稲荷説話、蛇龍棲息説話、七不思議説話の如き是也。 七不思議に至ては必ずしも其指す所の事一定せるにあらざるが如しと雖、琵琶橋、明星井、幽霊杉、摺鉢穴、禁鈴、摺子木、底知れずの穴、なりと云ふあり。 或は此一二を除きて八反畑、又は片葉の葦、双子池を加ふるものあり。 郡内に此外七不思議説話の存する例は元加治村野田円照寺々庭にあり。