田面沢村
総説
現状
田面沢(たのもさわ)村は川越町の西に連り、北は山田村、南は大田村、西は入間川を隔てゝ、名細村及霞関村に境す。
郡内小村の一にして、川越高麗街道、川越入間川街道村内を通じたり。
土地は東南少しく高台に及ぶと雖、村の殆ど全体は低湿なる水田地にして、地味肥えたり、赤間川は大田村より来り、東部を流れて川越町に入る。
此外二三条の用水、大田村より来り、村内を流れて、或は川越町に入り、或は山田村に入る。
小池多し。
産業は農を主とし、米麦の産あり、往々養魚養蚕等に従ふもあり。
人口二千五百四十三、戸敷四百二十九、今成、小室、小ヶ谷、野田、野田新田の五大字に分る。
沿革
入間川は曽て村の東南野田の地を流れて、川越町の西端に通ぜし形跡あり、更に現河道の稍東方を流通せし形跡もあり。
現今は西境を流れたり。
小ヶ谷の池は明暦の大洪水に生じ、明治十一年八月の大洪水に拡大せられたるものにして、小室鎌口の泉は往古より水を噴出せりと称す。
蓋し田面沢の地方、古来河道幾変遷、小池水沢も往今にして処を替へしならん。
村の諸処に円形の古墳を見る。
或は王朝の頃既に稍開発せられしにや。
最明寺は北条時頼によりて創立せられたりと称すれど従ふべからず。
又文明十八年の廻国雑記に出でたる月吉の屋敷と称するもの、及別に月吉に対して日吉屋敷と称するものありしとすれど、詳ならず。
後北条氏の頃に至て稍明白となる。
役帳によれば
二貫四百六十五文此外九十一貫四百文乙卯増河越今成宇野源十郎
五十六貫百十二文河越三十三郷、大導寺
と見え、今成には北条新九郎の子孫と称する川田今成が居仕せし説あり。
江戸時代には小ヶ谷が曽て采地となりしことあるのみにて、全村常に川越領なりしが、
野田は松平大和守の国替と共に前橋領となれり。
故に明治二年に至て川越藩前橋藩あり。
四年川越県前橋県ありしも、同年合して入間県(一大区四小区、野田は二小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年小室連合但野田及同新田は豊田新田連合に入る、二十二年に至て五大字を合して一村となし、雅名を採りて田面沢村と称す。
今成は村の東部より北部を占めたり。
川越町を去る五六町のみ。
戸数七十六。
今成の名称は川田備前守今成が此地を開墾せしを以て名けしとかや。
熊野と称する所にあり。
社伝に曰く永禄の頃北条長氏の孫川田今成本村を開墾し、後天正三年九月紀州熊野神社の分霊を勧請し、幾何もなく社地を東北現今の処に移す。
是より後村民尊崇し、之を氏神となす。
元禄三年川田平左衛門村民と計り、
祠宇を改造し、
明治五年村社に列せられ、
十年再び改造を行ふ。
村内にありし氷川、天神、稲荷の三社も近年熊野神社に合祀せり。
社地樹林あり。
又田間の一勝区たり。
金縄山広厳院と号し、天台宗にして川越中院末。
開基不詳なれども或は川田氏にや開山賢海(?)、中興は高海慶安元年五月寂す。
境内に川池あり。
旧境内は更に北方に拡かりしものゝ如し。
薬師堂及弁天社あり。
安楽寺の東に続きたる、広濶なる一宅地にして即ち川田備前守今成居住の地也。
其子孫久しく此処に住したりしも、近年川越町に移れり。
村の東南方水車付近の地にして今は小名を月吉と称し、其小橋を月吉橋と名けたり。
廻国雑記に「月吉と云へる武士の侍り、聊か連歌などたしなみけるとなん。
雪の発句を所望し侍りければ、云ひつかはしける。
「庭の雪月よしとみる光かな」これにて百韻興行し侍りけるとなん」と。
村の西南方にありと云ふ。
日吉は小名とならざるが如し。
風土記に曰く、日吉は当所を開墾せし人なりとのみにて其伝の詳なることを知らず。
想ふに月吉と対して日吉と号する時は、共に其人の号にして、別に姓名ありしならんと。
然れども月吉に対するに日吉を以てす。
事聊か小説的戯曲を交へしやを覚えしむ。
風土記に曰く、名主喜兵衛が居屋敷の内にあり。
川田、月吉、日吉、神田、四人当所を開きしと云ふ。
と。
但現今今成に神田姓なく、又其屋敷蹟と称する処をきかず。
小室は略村の中央を占めたり。
戸数五十七、村役場及小学校は此処にあり。
伝へ言ふ。
長禄元年水野多宮の移住するや、村民漸く集り、人口増加すと。
或は曰く小室の名称は水野氏の法号に出づと。
思ふに水野多宮と称する人の此地に住せしことあるは事実ならん。
年代事蹟未だ必ずしも明自ならざる也。
宮の越にあり。
伝へ言ふ。
水野多宮は太田道灌の旧友也。
川越築城の時、此地に移住し、氷川神社を勧請したりしが、大永元年正月十五日村の鎮守となれりと。
明治五年村社に列せられ。
四十三年村内の諏訪、愛宕、稲荷の諸社を合祀せり。
曹洞宗にして川越養寿院に属す。
湖月山小室院と号す。
風土記によれば、「永正年中の起立にして天台宗なりしが、廃滅後僧学山及地頭水野多宮再建して曹洞とせり。
水野多宮天正元年八月十五日卒す。
案ずるに水野家譜に水野多宮守重は織部忠守の次男也。
法名宗三、父忠守の法名芳心。
入国後玉縄の城を守れりと記せり。
法心芳心音近ければ当寺は忠守の菩提のために中興せしなるべけれど、水野は三河譜代の士なれば入国前当寺を中興するの理なし。
思ふに寺伝年代を誤れるならん」。
と。
氷川社に関する伝説によれば水野多宮は法心禅寺の開基、文明十年正月十五日卒す。
時に九十五歳。
法名小室院月叟法心居士と称す。
徳川氏の臣水野越前守の祖先なりと。
此に至て愈補足する事を知らざるに至れり。
又風土記に法心寺の南に水野屋敷跡あることを記したり。
今は明ならず。
小ヶ谷は村の西南に位す。
入間川に臨めり、戸数九十四、
藪合にあり。
地頭天野源左衛門此社を建立せりと云ふ。
後延宝六年其孫彦兵衛再建す。
元禄十一年川越領となり、十七年松平美濃守、享保十二年延享三年、宝暦十一年秋元但馬守造営せしこと見えた。
明治に至り村社となり、四十三年村内の熊野社、神明社、稲荷、諏訪の四社を合祀す、神明社は元西裏にあり。
創立年紀不詳なりと雖、寛文六年以来地頭及領主にて数回再営を行ひしこと旧記に存せりと云ふ。
村の西南隅にして、入間川の堤防に近し、天台宗にして、川越喜多院末、瑤光山と号す。
創立詳ならず、或は曰く、此寺元禅宗にして北条時頼の開基なりと、寺に其霊牌を蔵す、形式文字後世のものにして、恐らく最明寺の名称より附会したるものと覚ゆ。
然も寺の剣立は比較的古く、其寺観も亦堂々たりしものならん。
寺の近傍に古碑出づる所あり、又坊の跡、大門の跡等東に存し、南に存して、寺域の大なりしを語るが如し。
墓地に建武二年外数基の板碑あり。
風土記に出せる元禄二年奉鋳時頼開基のことを刻せる鐘は二三十年前失へりと云ふ。
野田及野田新田は共に村の東南部に位し、高台の地及之に近き地方を占めたり、野田は元川越町大字野田と一村にして慶長二十年の文書には野田新田と記されたりと云ふ。
其川越分、田面沢分と二分せられたるは何れの頃なるか末だ聞くことあらずと雖、思ふに恐らく二十二年町村制を定の頃にあらんか、野田新田は正保元禄の間に開けたり。
野田及野田新田を合して戸数二百二。
野田址上西にあり。
創立不明なれども、慶安元年の検地帳に社地の記載あり、天明二年正官御殿預。
摂津守荷田宿禰より正一位授与の証あり。
明治二年村社となる。
近年野田村内の八坂日枝両社を合祀せり。
野田新田八幡にあり。
寛治五年源義家の勧請と称すれど信ずべからず。
明治五年村社に列す。
更に風土記を閲するに、「社は御茶湯塚と云へる塚上に建つ、川越養寿院の持、御茶湯塚とは神祖此辺遊覧の時、此塚上に休息せられし折、塚下の宝林庵より御茶を奉りし故なりと。
或は然らん。
宝林庵は今廃寺となる、付近を今も御茶カン坊と呼べり。
風土記に曰く。
川越養寿院の持、境内に開基卷光院雲誉西居士、享保三年三月二十三日卒すと云ふ碑あり。
こは俗名新藤平四郎吉安川越志義町に住せし由、又中興開基高節斉省日孝居士、寛延三年七月八日俗名高山甚五兵衡宜繁とあり、これは秋元但馬守藩なりと云ふ。
云々。
野田新田の一小字也。
鍋屋新田の略にして、今は川越神明町なる鍋屋矢沢氏は北足立郡川口町より来て川越代官町に住し、後住地の徴収せらるゝに及て、替地を此処に下附せられし也。
移住の年代明ならず。
豊田本村を主とし、一部野田新田に及べり。
其の境界に白山神社を設く。
其の来歴に関する伝説は大田村の条に述べたり。
安生老の北、川越町に至るの間の一区にして、古より一般に田島新田を以て通用せらる。
野田に田島氏あり。
此処は其開墾したる新田なるにや。