芳野村

総説

現状

芳野村は郡の東北部に位し、北は入間川を隔てゝ比企郡に対し、 東は古川によりて植木村に境し、 南は古谷村、 西は川越町山田村に連る。 川越上尾街道村内を通過せり。

土地一面の水田にして、入間川北境を流れ、赤間川村の南部を流る。 其他数条の用水は東西に村内を通したり。 東境の古川は即ち入間川の古道也。 村の南方に伊佐沼あり。 周回里余、其一半は古谷村に入れり。

産業は殆ど農を主とし、米の産額大也。 別に副業として、僅に漁業等を行ふものあり。 川魚は大抵川越町に鬻ぐ、近時蚕業に従ふもの又少からずと云ふ。 人口三千十五、戸数四百七十六。 谷中北田島鴨田石田本郷菅間伊佐沼の六大字に分る。

沿革

芳野村地方は何れの頃より開けしか詳ならずと雖、思ふに川越城の築造は大に其発展を促したるべく、後北条氏の時代に至ては、村の各地、其麾下の知行せし所ならしを知る。 役帳

富永弥四郎二十五貫文河越谷中

山中孫七郎百八十一貫三百八十二文河越三十三郷伊佐沼

太田新八郎八貫五百文河越鴨田

案独斉二十二貫文入東鴨田

と見ゆ。 天正十八年徳川氏関東に入りてより後は、終始川越城に附属し、川越城の増築、乃至要害の設備、入間川の新河道開鑿等は此村に関係を及ぼしたると、少からざるべく、維新の際に至ては、明治二年川越藩に、四年川越県に、次で入間県(一大区五小区、伊佐沼は二小区)に、六年熊谷県に、九年埼玉県に属 し、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年北田島連合。 廿二年芳野村となる。

入間川及伊佐沼

入間川は往古、今の赤間川の流域を流れたりしが如きと、既に述べたる所也。 伊佐沼の如きも、其名残にや。 今の河道をとれる後も、川は芳野村北境より、一直線に東流せず、菅間石田本郷より南流して、今の古川の水路を流れたりしが、年々の水患非常なりしを以て、延宝八年松平伊豆守信輝、石田本郷より直東に水路を開鑿し、為に旧水道は縮小したれども、依然古川として存せる也。

伊佐沼芳野村鴨田伊佐沼古谷村古谷上の間にありて、南北十七八町、東西三町、古は沼の中央に一大岩石ありて突出したりと云ふ。 泥深く、水浅く、鯉鮒の類を産し、又蓮菱等も少からず出づ。 風光も不可ならず。

谷中

谷中は村の西部に位し、山田村石田と接せり。 戸数二十有余。 其大野氏は府川に関する天正五年の文書に出でたり。

正円寺

川越中院の末寺にして、清水山多門院と号す。 寺内に毘沙門堂あり。

菅間

菅間は村の西北部にして、入間川に臨む。 戸数百余。

神明神社と稲荷神社とは山田村石田藤宮神社に合祀せり。

観音寺

川越中院末、正法山と号す。

円光寺

中院末、寛文五年に寂せる権大僧都豪園の墓碑あり。

竹谷氏は先祖を源七郎と云ひ、天正の頃、今谷中に住する大野氏の祖縫殿助と共に山田村府川にて五貫文の地を支配し、其地の代官を務めたりと云ふ。 家に天正五年検地に関する古文書を蔵したりき。

北田島

北田島は村の西南部に当り、其開発は比較的近世に属するが如し。 風土記には、

「寛永の頃寺井三ヶ村の農民来て開発し、慶安元年松平伊豆守検地せしより一村となりし由伝ふれど、正保の改に村高五百石、松平伊豆守が知行なると見えたれば、一村となりしは信綱が検地せしより前の事也。 又寺井三ヶ村の者開きしと云ふも疑ふべし。 思ふに南田島より開きし地にて、 其より北に当れば、 其頃南田島の称も起りしものならん」と記せり、 戸数五十。 村役場は円満寺に設けらる。 小社多し。 稲荷、神明、厳島、天神等の諸社是也。

円満寺

川越喜多院に属す。 正法山妙観院と号す。 開山は喜多院二十九世周済にして、天海僧正未だ若かりし頃中興せりと云ひ、寺に其書を蔵せりと。 今村役場たり。

円満堂

観音堂

伊佐沼

伊佐沼は村の南部に位し、同名の沼沢の西方に連れる一部落也。 戸数五十余。

薬師神社

伊佐沼の畔にあり。 享保二年の再建にして、社地は稍沼中に突出し、社側に厳島社あり。 此処維新前までは、川越城高松院末、医王寺の存せし処なりしが、寺は廃れたり。

稲荷神社

石田本郷

石田本郷は村の北部にあり。 石田本郷或は石田村の本郷にして、古は石田村の地広かりしにや。 風土記によれば、「土人の伝に、昔石田谷中の二村も皆当村の中にて、凡て石田と唱へしとなり。 案ずるに谷中は当村と石田との間に挟り、此村より谷中石田と西へ次第したれば、さもありしにや。 此事正しき説ならんには三村に分れし時、本郷の名を冠せしならん。 北条役帳谷中石田の名見えたれば、分村せしも永禄年中より前の事なるべし」と。 戸数七十余。

稲荷神社

山田村石田藤ノ宮神社に合祀す。

天神社

小寺多し。 宝蔵寺、松寿院は川越中院末、観行院は上野寛永寺末也。

鴨田

鴨田は村の東部を占めたる一大部落にして、戸数二百余。

八幡神社

山田にあり、伊佐沼の東に位す、太田道灌が勧請せし所なりと称す。 又慶長年代の棟札をも蔵したりと云ふ。 社殿老杉の間に立ち、境内静寂、其西方伊佐沼畔まその通路の松並木、遠望甚だ佳也。 境内に浅間社、厳島社等あり。

中臣神社

八幡神社の東北方にあり。 八幡より古き勧請とのみ伝へらる。

稲荷神社

荒川堤坊の傍にあり。 老杉あり。

其他尚稲荷社、諏訪社、神明社等あり。 又八坂神社は柳橋の東にありて、傍に厳島社を設く。

一乗院

上尾街道の北に位し、川越仙波中院末、星光山善光寺と称す。 伏見天皇永仁四年、尊海の開山と伝へらる。 尊海は喜多院中院の中興也。 寺堂大、楼門あり、小堂あり、尊海の墓は後世の建立にして、正慶元年示寂の事を記したり。

一乗院(星光山新善光寺)

其他小寺甚だ多し。 華蔵寺は一乗院末、東光寺、神光寺亦然り。 歓明院は中院末、 然れども何れも頽廃に傾けり。