高階村
総説
現状
高階村は川越町の南一里余の処に位し、東は南古谷村、福岡村に隣り、南は大井村に境し、西は福原村に連る、北は即仙波村の地なりとす。
川越東京街道、村内を縦貫し、新河岸街道、之より分枝せり。
其他新河岸箱根ヶ崎街道、入間川街道、青梅街道、志木街道、所沢街道等あり。
入間川街道は村内にあるもの四町のみ、不老川北境を流れ、東境の新河岸川には新河岸、寺尾河岸等の舟着所あり。
水運の利大也。
新河岸川の沿岸低湿にして肥沃且水利に富み水田開けたり。
其他は多少の高低あれど土地概して稍高く、陸田連れり。
一般に農業行はれたれど、河岸には荷物の取扱を業とするものあり。
東京街道には一部商業に従へるもあり。
機業も行はる。
麦、甘藷、其他野菜類の産に富み、蚕絲、織物も産額多し。
砂新田、砂、扇河岸、上下新河岸、寺尾、藤間の七大字より成り、戸数五百六十三、人口三千五百三十三。
沿革
高階の名古く和名抄に見えたり。
然れども和名抄に所謂高階郷なるものは郡内何れの地方を指せるか明白ならず。
或は曰く高島(たかしま)村(古谷村に属す)なりと。
或は曰く南の方宮寺村付近ならんと、要するに推測のみ。
明治二十二年町村制施行の時古名を取り来りて此村の名称に適用す。
但古の高階郷決して今の高階村の地なりと速断すべがらざる也。
此村の地方、古は武蔵野の内にあり。
其人烟を見るに至れるは生活に簡便なる東方新河岸川近傍の地に始まりしこと一般に信ぜらるゝ所也。
大字藤間の東方、字東久保と称する所には鎌倉街道の跡あり。
其傍に噴泉あり。
村民はじめ此地に居りしと伝へり。
天文六年北条氏綱、上杉朝定と戦ひ、同十五年北条氏康、上杉憲政と戦ひ、前後二回の戦闘に此辺の地又兵馬の馳驅する処となり、兵火のために人家荒廃に帰せるもの少からざりしと云ふ。
天正十八年北条氏亡び、徳川氏江戸城に入るや、酒井重忠、川越城の近傍を整理せしが、当時の文書に此の辺を高麗郡と記せるものあり、又元禄九年の水帳に高麗郡仙波村の内藤間村云々とあり。
寛永六年東照宮仙波喜多院に設けられて、川越江戸街道開くるに及び、人民移て其両側に居るもの多し。
其後新河岸川に舟着所開設せられ、村内漸く人家を加ふ。
要之高階村は両上杉のはじめ頃より開け、一たび戦乱の災に遇ひしも、水陸両方面に於ける川越江戸間の交通は頗る此村の発違に有利なる影響を及ぼせしものゝ如し。
明治維新以来の変遷は川越領の諸村と其行程を同じくし、明治四年入間県(二大区二小区)明治十七年砂新田連合戸長役場を設け、村内七村を合したりしが、二十二年高階村と称し、一村の組織となれり。
砂新田は村の北部にして仙波村岸と相隣りせり、川越を去ること一里、人家街道の両側に並びたり、天文の頃より、民居となれり。
其頃医師円西なるもの住せしこと古書に見えたれど、今は伝はらず、其小名に存せし筈り円西尻の称さへ、今は已に忘れられたり。
恰も其頃京都三宝院の富家に浄蓮坊法眼なるものあり、諸国を行脚し仙波に至り(仙波村の岸村なりともいふ)弘治元年の頃此地に来り住す。
此に於て遂に常蓮坊の名あり、今に至るまて砂新田の別名を常蓮坊と云ふ。
(土人の発音はジャウリンボウと聞ゆ)常蓮坊慶長六年二月十一日卒し、其子孫源八、名主を務めしが其の後慶安年中三上新右衛門と云ふもの砂村より来り、当所の名主となりしかば、砂新田と改めたりと云ふ。
但天文、弘治は相去る遠からず、故に円西坊と常蓮坊とは或は略ぼ同時代にして、円西新田、常蓮坊新田一時相並て存せしやも計られず。
然るに常蓮坊の名は遂に円西新田の称に勝ち今日に至るまで、尚一般に使用せらるゝ也。
天正十八年以来川越領となり維新の際に至る、今は戸数八十余。
村の南端、東京街道の西に当り、二丈許の塚上にあり。
石階あり、枯木あり、塚の周囲は雑木林也。
次兵衛即吉田氏、旧里正小峯氏に存する伝記によれば、江州の人、大阪方に与して戦功あり、後流浪して川越に来り、松平伊豆守信綱に仕へて、信任せられ、砂新田の地を給せらると。
蓋し其勇にして仁なる人格は村民の仰慕を深くし、身死して遂に塚を築き、社を設けらるゝに至りし也。
然るに伝説は此塚を解して頗る興味ある物語とせり。
其一を次兵衛榛名神社信仰の説となし、其一を次兵衛入寂の説となす。
要領左の如し。
次兵衛砂新田にあり。
之を久して子なし。
由て榛名神社に祈て一女子を得たり。
然れども此子神のもうし子なれば、六歳の頃去て神に帰せり。
此に於て次兵衛大に悲み、再び神に祈りしに僅に其姿を見るを得たり、三たび祈るに及で遂に龍となりてあらはれたりと此に於て次兵衛遂に此世を厭ひ、此地に穴を穿ち、中に入りて念仏すること七日にして定仏し、村民と予め約して塚を設けしむ。
村の中央に位し、宝永三年次兵衛が建つる所也。
天台宗にして、川越城内高松院末、次兵衛の像を置く。
然れども百年以来荒廃して、堂宇、住僧、本尊、皆之を失ふ。
今村の古老に問へど寺の存せしを知るものなし。
村の中央、長谷川氏の庭中にあり。
立派なる墓所なりと云ふ。
村の中央より少しく北に寄り、街道の東側にあり。
一丈余の塚上にあり。
村社にして、祠堂稍見るべく、本村の鎮守なり。
塚の中腹八坂及稲荷の二社あり。
此塚及此社共に由来定かならざれど、勿諭此村開けてより、神祠を塚上に勧請せるものならん。
村の中央より西に入ること、二丁、雑木林に囲まれ、供養塔、普門塔等立てり。
砂新田の東に接し、其本村也。
戸数八十余。
砂新田より扇河岸及新河岸に至る街道、村内を通過せり、徳川氏の頃は常に川越城に属したり。
北部にあり、周囲七町。
村の東南、新河岸に近き高台上にあり。
此村並に付近の鎮守にして、境内広く後方に小学校あり、境内に八坂神社あり。
村の中央、街道の傍にあり。
天台宗仙波中院の末、寂光山平等院と称す。
寛永十七年円海法印起立せる所、今大に荒廃に属す。
勝光寺と街道を隔てたり。
勝光寺の所持なりと云ふ。
扇河岸は砂村の北に当り、新河岸川に沿へり、舟着の処なりしも近来は殆ど衰頽を極めたり。
東西二町、南北一町余に過きざる小村落也。
戸数二十に足らず。
土地の形扇に似たりしかば、扇河岸と称せりと云ふ。
正保の国図には見えず。
松平信綱、始めて舟着の地たらしめ、寛文二年、貞享二年、元禄六年、三度に検地を行はる。
武蔵野話には扇河岸より仙波に至る間冬夜炎火飛ぶとあるを記せり。
今は其事なし。
新河岸川に架せり。
長さ七間
上新河岸は村の東部に位し、戸数二三十に満たず。
元、寺尾村の地に属し、諏訪右馬亮が城蹟の地なりしを、荒廃せる後開墾して一村とせる也。
其開墾の年代は正保以後元禄以前の頃と覚し。
恰も此頃川越付近運送の便に供せんがために、河岸場を設くるあり。
依て新河岸と名け、次で上下の別を設けしと云ふ。
寛文二年四月二十四日建造せし石地蔵の後光には深田甚右衛門尉此河岸を開きしことを彫れりと。
村は常に川越城に属したりき。
下新河岸は上新河岸の南に隣り、其来歴凡て前に同じ。
戸数二十余。
川岸に接せる高台の上にあり。
社は大ならざれど、境内広し。
有名なる観音堂は曽て火災に遇ひ、今は仮堂を存す。
所謂新河岸の観音堂是也。
此堂は元木之目村の長者と称せられたる大河内某の女が病を治せんために祈願建立せしものなりと云ふ。
其水屋に北条氏の三鱗の紋あり。
日枝神社の傍にあり。
寺尾は村の東南部にあり。
人家八九十、此地古諏訪右馬亮居城せしと云ふ。
北条役帳には二百貫文寺尾、諏訪三河守と記し、又小田原記に武州寺尾の住人諏訪右馬助とあり。
(然れども武蔵国中四ヶ所に寺尾村ありて其何れも諏訪氏の居城と称す)
村の北方にありしと覚しく、或は新河岸の地域にも及びしか。
然れども今其跡を徴するに由なし。
或は砂村氷川神社の南方にも城塁の跡ありと云へど確実ならず。
風土記には寺尾より上下新河岸に跨りて、本丸二丸三丸と覚しか処あり。
又砂村の境に土居あり之を要害と呼ぶと記せり。
更に其記す所によれば、寺尾に小字猫山あり。
或は猫山は根古屋の転訛なるやも計られず。
(野話にも砦跡の事見ゆ。)
村の鎮守也。
末社に天神社外二三あり。
川越中院の末寺にして、寺尾山蓮華院と号す。
天台宗にて天長年間慈覚大師の開基なりと称す。
其後一時衰徴の状に陥りしを、建武元年秀海法印大に寺運の恢復につとめたりと。
今は砂の勝光寺住僧の兼務也。
村の南部を占む。
元藤馬と記せしを、明治六年藤間と改む。
人家百三四十。
村社。
近来村内の諸社を合祀し、神明社、熊野社、天満宮、稲荷社、八坂社等皆境内に移されたり。
曹洞宗にして、慶長十五年時の地頭米津彦七郎の開基にして、寛永二年僧舟海久呑之を中興す。
初民家と共に東久保にありしを、元禄十二年松平美濃守今の地に建立す。
其梵鐘に松平の銘を刻す。
傍の阿弥陀如来は承応二年肥前佐賀郡東谷山石長寺の住職此処に来り、自ら刻して本尊とせしもの也。
東光寺の北隣にあり。
村民の信仰厚し。
開基不詳。