高麗川村
総説
現状
高麗川村は郡の中央より稍々西部に位し、大家、山根二村を北にし、高萩村を東にし、精明村南にあり。
高麗村西に位す。
越生村を去る二里、飯能町を去る一里、川越町を去る四里余也。
川越高麗街道と飯能越生道とは村内に交叉せり。
地勢西北部は丘陵甚だ迫り、富士山以下の諸丘あり。
高麗川は高麗村より入りて其東を流れ、大家村に出ず。
宿谷川山根村より来て之に注ぐ、稍々緩かなる小波動状の丘陵は村の南部にも連り、小畔川は精明村に出てて其間を縫ひて、村内中央部の平原地帯に出て、東北高萩村に入る。
土質中央部は墟土にして、地味肥沃ならず。
南北両河の付近は肥沃也。
即ち高麗川畔は礫質壌土にして、小畔沿岸は壌質埴土也。
織物、茶、薪炭、麦、の産多く、人口三千百八十九。
戸数五百三十。
鹿山、上中下鹿山、田波目、平沢上中下組、猿田、新堀新田、野野宮、原宿、の十二大字より成る。
沿革
高麗川村の地方も高麗人の渡来の頃より既に邑居人烟を増しつゝありしものならんも、之を久しうして其蹟を尋ぬべからす。
其史にあらはるゝも、比較的後世に属す。
平沢は元一村にして、鹿山も亦然りしは郡内各地に存する例より判断して誤らざる所、鹿山平沢共に小田原役帳には三田弾正少弼の知行なること見えたり。
又平沢は天正の頃野口刑部丞五十五貫文を領せしことあり。
江戸時代の所属は大抵采地若しくは支配地にして、維新前には一橋家の領せし所もあり、支配地と采地とは明治元年知県事に属し、二年品川県、次で韮山県に属し、一橋家は二年一橋藩、次で韮山県となり、別に猿田は元年まで岩槻領、二年岩槻藩、四年岩槻県たり、次で全村入間県(四大区五小区)となり、六年熊谷
県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄(高麗郡)十七年鹿山外十一村連合となる。
二十二年高麗川村を組織し、二十九年入間郡に入る。
鹿山は村の中央部に位す、元光音寺鹿山と称し、今も里人「光音寺」と呼ぶことあり。
鹿山地方元一村にして、往古加山又は賀山と記せるものゝ如し。
古碑に加山と刻し、役帳に賀山と見ゆ。
後四に分るゝに及び、鹿山村は村内の寺号を冠せしめて、光音山鹿山と称せる也。
故に正保国図には光音寺鹿山と記せり。
又村の東部を道添鹿山と云ふ。
古川越道の沿道なりしを以て此称ありと云ふ。
後明和年間(宝暦とも云ふ)領主を異にせしを以て鹿山、上知鹿山と称せしも、明治七年再び鹿山と称するに至れり。
慶加山と号す、真言宗聖天院末、開基栄源年代不詳、薬師堂あり、旧村名の因となりし寺院也。
村の西部にあり。
高麗領の陣屋ありしを後、高麗村に移せりと、傍に首切地蔵あり当時処刑せられし者の霊を慰むる為に後世設けし所なりと云ふ。
今其の影を見ず。
上鹿山は村の南部に位し、元上信より八王子への運送道に当り、宿駅甚だ隆盛にして、其問屋たりし関戸氏の如きは「金が産(な)る」とまで形容せられたりと云ふ。
以て繁昌の状を知るべし。
元八剣神社の社地を増し明治四十二年三月上鹿山、原宿、鹿山、中鹿山、下鹿山、新堀新田の六大字の村社及無格社十一を茲に合社し、高麗川神社と称す。
真言宗聖天院末にして明治元年飯能戦争の際に松平周防守陣地たり。
今は本堂荒廃を極む。
中鹿山は上鹿山の東北に連る。
南部の丘上にあり、塚の周囲五六間乃至十間高さ三四尺より五六尺に至るもの三十六各喰違ひに二側に並ベり、土人之を経塚又は旗塚とも云ふ。
地形によりて案ずるに此地は高麗之原に於ける小丘陵にして、南北遥に原野を隔てて、入間高麗の二川を望み、東は一望村落に連り、田園川流の様も手に取るベく、円生社は廃し、円生池も今は涸れたりと雖、古は大にして、女影の于丈池は東南に在り。
太平記建武二年七月、相模守北条時行大将として三河入道照雲、滋野一族信濃より起り鎌倉を襲はんとし、鎌倉よりは渋川刑部、岩松武蔵などと女影原に出て戦ひ敗れて、二人自害せしを記する古取場は女影北部の原野なりしと云へば、此辺は恐らくは鎌倉勢の旗を起てたる所ならんと云ふものあり。
暫く記して後考を待つ。
酒井伯耆守が領主なりし時、陣屋を設けし処也。
下鹿山は中鹿山の東北に位せり。
猿田は上鹿山の西に位す。
野野宮は猿田の西北にして、村の西隅に位す。
平沢上中下組は村の北部を占めたり。
元一村にして、元禄二年新開地田波目を併せ、後元文三年代官田中休蔵支配の時より、上中下三組とし、且田波目を分離せしが、三組常に領主を同くし、密接の関係を保てり。
小久保氏には永禄の古文書を蔵しき。
四十一年三月平沢上中下、田波目の四大字は村社を合し芝宮、七面、神明を境内社として合祀し村社天神社と称す。
上組にあり、川越中院末。
中組にあり。
川越中院末、応永年間村民小久保某此地に隠居せる庵なりしを何時か一寺となせりと云。
下組にあり中院末、天文九年栄宝開山なりと云ふ。
下組にあり、中院末、至徳二年忍西開すといふ。
田波目は平沢の東、村の東北端にあり。
元平沢に属せし原野にして、寛文八年坪井次右衛門検地せり。
元禄二年代官設楽勘左衛門の時、同村の民左太夫、三右衛門の両人新墾せりと。
後元文三年平沢村より割かれ、当時上田波目と称し、大家村多和目(下田波目)と区別せしが何れの頃よりか上の字を削れり。
原宿は平沢の南、鹿山の北にあり。
村社。
無格社。
村の西端越生飯能道にあり。
幅二尺三寸、高一丈厚五寸あり。
文字明かならざる所あれど。
碑面に刻する処左の如し。
光明遍照
右志者為父母師長七三四因並現在道然同列仏家二十二人惣主干寸
十方世界
念仏衆生
正和二年八月八日時正
第二敬白
構取不捨
木一金半尋帋助力結縁者往生
□秀至枯界平等利甚逆修如件
此碑風士記に出でず。
野話には「新堀村は越生より鹿山中山飯能への往還なり。
路傍に石碑あり。
高一丈二尺余。
横幅二尺二寸、厚四寸程にて云々」新堀村は原宿の誤也。
新堀新田は原宿の東に接せり。
享保十一年の検地にして、文化の頃戸数一、山田村小久保教宝院配下の修験宝蔵院居住し、此地を支配したりき。