古谷上
古谷上は村の北部を占め、東西三十町余、南北二十町余、戸数三百余、正保の古文に古谷上郷とあり、慶安の水帳には河越領上郷と記したり。
今も人は一般に「上郷」を以て此地を通用す。
堀之内にあり。
土地縦横に小渠を通じ、内廓外廓の状、今尚一部を存せり。
近傍に内曲輪、御門、門前、宿、馬場、的場、馬洗、家中畑、屋敷等の小名あり、皆古尾谷氏在城中の旧跡にして、其名の存するもの也。
古伝に曰く、文和年中(北朝)古尾谷氏此に居城せりと、墳墓は善仲寺境内にありて、断碑四五基を存すれども読み難く、子孫近世にきこえざれば、其世系も知るべからず。
後天正中、其臣中筑後守資に又此に館すと、其墓又同寺にあり。
伝へ言ふ。
資信天正十年十二月六日村内の鎮守にて舅氏某に誘殺せられ、一家離散せり。
因て土人遺骸を此地に埋むと。
其子孫郡内三ヶ島村、南畑村、古市場村(南古谷)豊田新田(大田村)等にあり。
注意
古尾谷氏の事も中氏の事も異説甚だ多く、且材料甚だ欠乏到底之を詳にすべからず、善仲寺に存する中氏代々の霊位の如きも、頗る吟味を要すべきもの、今は概して里伝に従へり。
字赤城にあり。
創立年紀詳ならず。
風土記には唯此辺土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚を築き、上に社を立つ此辺の鎮守なりと記せり。
然るに寛文の頃までは全村挙て赤城社を仰きしも、其後村内両分し、為に唯西部半ヶ村の産土神となれり。
加之更に明治四年古谷本郷八幡神社を以て村の鎮守となすに及び、赤城社は単に信仰社たるのみ。
其丘高丈五尺。
字堤外にあり。
大山乍命を祭る。
旧別当実相院の古記録によれば、近江国滋賀郡日吉神社の分霊なりと云ふ。
一ノ宮と称するに就ては伝説あり。
曰く、昔最澄が日吉山に入り堂宇を建つるの地を相せし時、日吉の社号を改めて山王となし、又六社を増祀して山王七社程現と称し、日吉山を比叡山と改め、神社を以て仏寺の守護神となせり。
因て本社は其一宮権現を移せるなりと云ふ。
明治四年まで当村東半の鎮守たりき。
社地樹木鬱蒼たり。
字三ヶ戸と云ふ処にあり。
菅公を祭る。
古老の口碑によれば、中筑後守資信の城内鎮守なりと云ふ。
現今の社地は其城門のありし処にして、三ヶ戸の名之に依て生ず。
三ヶ戸は即ち御門なりとかや。
字上ヶ谷戸にあり。
倉稲魂命を祭る。
古老の伝によれば、中筑後守の家臣此地方に住し、当社は其氏神なりしと云ふ。
之を以て社傍の地、今も尚家中畠の古称を遺せりと。
所謂一本杉に至ては、古木既に中空にして、梧桐其中に生ひ茂りたり。
黒須にあり。
石凝刀亮命を祭る。
屋敷にあり。
古老の言によれば、中築後守の家臣邸宅を此地に構へ、本社を以て其氏神とす。
然るに本社は中氏の居城の東北隅に当るを以て、鬼門除の社とし、特に崇敬せられ、敢然たる一大社として、境内広大社殿壮麗なりしが、中氏滅で衰頽し、境内も荒川のために壊崩され、今は些々たる小祠を存するのみ。
赤城にあり。
丈許の丘上にあり。
堀之内にあり。
元中筑後守の内廓古跡上に当り、地名堀内の名も従て生ぜり。
古老の言によれば、山城国祇園社の神符を請ひて祭れるものにし
て、維新前には祇園牛頭天王と称せりと云ふ。
堤外にあり。
元は古川?の岸にありて、久しく富士塚と称し、近傍の地名にも及びしが、維新改租の際其繁雑を愁ひ、之を堤外一宮社?に合せたり。
上谷にあり。
字堀之内にあり。
文政六年正月十三日の火災にて古文書焼失し、由緒詳ならざるに至れりと雖、正治二年庚申歳今の仙波村新宿の地にありて、善中寺と称し、開祖は妙心寺派默室禅師也。
(新宿村参照)寺又庚申山と称し、又安養山と云ふ。
安養は古尾谷近江小太郎信秀の法名也。
信秀法謚を古谷院安養無着と云ひ、応永六年十一月廿八日歿す。
其後天正元年家臣中筑後守資信古尾谷を領し、因て主家のために之を再興せり。
即ち資信は渋井村蓮光寺六世性翁慶守を中興開山とし、寺を館側に置く、資信の号安養院と称するを以て古谷山安養院と改む。
法系今に連綿たり。
曹洞宗蓮光寺末。
其墓地の辺当年の塁跡明に存す。
西北隅に古尾谷無着の墓あり。
又正北に中筑後守藤原資信の墓あり、然も墓石苔むし、今や文字を弁ずべからざる也。
古川端にあり。
天台宗山門派にして本郷灌頂院末也。
風土記に境内嘉元四年の古碑一、外に年号文字凡て不分明の古碑二三枚ありしとを記せり。
古谷村地誌によれば慶安年中の水帳には実相坊と記し、里伝、往時門徒寺なりしが、宝暦年代村民善仲寺と争ふとあり。
離壇して実相坊を押し一寺となしたりと。
又善仲寺過去帳にも実相坊の名あり。
然れども開山幸了と称するは天正五年領主中筑後守が古尾谷八幡宮を再建せし時の僧なれば、古き寺跡なるとを知る、当時は多聞院と云ひしが如く、今も寺号を多聞寺と云へり。
と。
開祖幸了の石碑存すれども年号等なし。
十二世器空なるもの享保年間中興したりしが、寛保、安永両度火災あり記録等焼滅せり。
十五世簒隆天保年中堂宇を営む。
現存のもの是也。
字沼端にあり、破堂今尚存す。
往時は実相院門徒なりしが、明治六年廃寺となれり。
宿にあり。
破堂尚存す、往時は灌頂院門徒、明治六年八月十五日廃寺となる。
墓地中に旧本堂及薬師堂あり、墓地に康(或は応)永三年及地蔵を刻せる板碑あり。
道々(ドードー)にあり、畑となる、往時は善仲寺門徒、寺跡は今善仲寺境内に移し、庵を立てゝ本尊薬師仏ををけり。