加治村

総説

現状

加治村は郡の西南隅にあり、飯能町精明村を北にし、元加治村を東にし、南高麗村を西にして、南は金子村及東京府多摩郡の地に境す。

名栗川は西より来り、成木川は西南より来り、村の中央に於て合して、入間川となり、東流して、元加治村に入る。村内より発する小流は何れも入間川に注ぐ、地勢、西部及南部は一帯に丘陵相連り、高尾根山琴平山は西にあり、秣場山は南にあり、北部は高台にして陸田多く、中央及東部は低地にして水田連る。土質砂質壌土を主とし、河南には礫質を帯ベる処あり。七子、茶、麦の産多く、岩沢笠縫川寺矢下風(ヤオロシ)、前ヶ貫阿須(アズ)、落合の七大字より成り、人口三千二百七十四、戸数五百二十。入間川飯能街道は北境を走る。

沿革

村の沿革は各大字によりて些少の差違ありと雖、大体は略同し。口碑によれば加治氏の有に帰せるは長禄年間の事にして、天正十八年より天和二年までは徳川氏の代官支配所たり、天和三年よりは田安家領地となり、享和二年代官支配所、延享四年再び田安家領、天保四年代官領、弘化元年より慶応四年まで旗本金田真之助知行所たり。明治元年に至り、武蔵知県事に属し、二年品川県となり、次で韮山県となる。四年入間県(四大区七小区)に属せしが、六年熊谷県、九年埼玉県となり、十三年入間高麗郡役所管理、(高麗郡)十七年岩沢村連合戸長役場の所属たり、二十二年加治村となる、二十九年入間郡に入る。

岩沢

岩沢は村の東部に位し、東西南北各約十町、人家百十五戸あり、正保図及元禄改定の頃までは上下を分たざりしが、其後分村し、今は又合せり、新開の地二ヶ所も亦合せり、柿を産す。

六道橋

字六道にあり、明治十六年近衛師団演習の時、明治天皇陛下御乗馬にて御渡橋あらせらる。

鎌倉古道

村の西部にあり、上州より相州に赴く街道にして南は阿須に達す。

白髭白山神社

字宮の西にあり。村社也。由緒によれば、霊亀二年の創建なりと。但し想像のみ。本社拝殿あり。社務所をも設けたり。別に境内に一社を設け、天満宮稲荷山神社、神明社等村内の諸社を合祀せり。

見光寺

字中内平にあり、曹洞宗通幼派、金子村瑞泉院末也。一樹存松の中興にして天文二年十二月二十日入寂す。位牌に記せり。宝暦十二年境内ヘ一堂を建立し、地蔵を之に移したり。其後嘉永年間再び地蔵を本堂に移せり。観音堂あり、鐘は本堂に掲げたり。

明王寺

字前原にあり、真言宗新義派比企郡今泉村金剛院末也。創立年月詳ならず(風土記には開山源海寛永十三年四月廿一日寂)但良海なるもの中興開山と称す。然ども良海入寂の年月不詳也。三世源誉万治三年八月十日寂せるを、古碑に見ゆ。此寺号は今熊谷に移し、跡に地蔵を存するのみ。

笠縫

笠縫は岩沢の西に隣り、入間川の北岸にあり。東西五町、南北十町、人家五十、元南方に新田ありしも、明治の始本村に合せり。

正願寺

字新堀にあり。真言宗新義派、比企郡今泉村金剛院末也。承応元年村民協力して往昔より在来の仏堂を修造して一寺となし、権大僧都法印覚順を開祖とす。覚順天和二年十一月寂せるを霊碑及墓碑にあり。今は加治村役場に代用せらる。

川寺

川寺は笠縫の西北に連れり、東西五町、南北之に適ふ、人家五十余、川寺の地、旧、寺院多くして川に近し。依て此名ありとも伝ふ。村内明神社鰐口の銘に明応四年癸酉十一月五日加治領奥谷明神とあり、或は然らば此辺を元奥ヶ谷とのみ唱へ、川寺の称は後世に出でしにや。

神明社

字一本杉にあり、村社にして、明徳二年十一月以前の創立也。今は字熊坂の熊野社、(伊邪那美命)、隣地字笠縫の神明社(天照大日霊命)、地神社(神倭礼彦命)、稲荷社(宇賀碑命)、同上(同上)の五社を合祀せり。

願成寺

字熊坂にあり。真言宗新義派にして比企郡今泉村金剛院末也。貞治四年八月僧希西の創立にして、希西翌年寂す。寛政の始覚誉中興す。今の本堂は寛政時代の建造なれど、古風の趣あり、堂は元は少しく南方、墓地の傍にありしと云ふ。墓地に大板碑あり。

貞治五年 丙子 七月廿五日 沙弥希西

右○○○為逆修善根

造立塔婆伏願四部○○

永徳二年 壬戌 八時正○虎敬白

三十七人現世安穏後世

○○法家含雪○○○

と記し。尚一基は文字不明也。又傍の小板碑には、

康安二年 壬丑 九月十三日放宗敬白 禅尼立

と記せり。又墓地と本堂の間路傍に板碑塚あり、無数の板碑積み重ねられたり。

此等は凡て境内南方の林地を開墾する時発見したるものなりと云ふ。寺に曽て畠山重忠の乗鞍と称するものを蔵したりきと云ふ。

大光寺

字矢の目にあり。真言宗新義派にして、高麗村聖天院末也。応安六年九月十三日本寺聖天院五世重誉開基たるを旧記に存す。重誉は永和年間入寂せるを石碑にあり。寛保二年八月廿五日当村椙田五左衛門男得度し光運になり、中興開山となる。明和五年八月十五日入寂の霊碑今尚存す、本堂屋根高くして古風也、庫裡あり、別に虚空蔵仏を安置せる仏堂あり。其構造堅固也。境内雑草繁茂し、墓石の間小虫の鳴咽をきく。

矢の根弁天

矢田川の上流にあり、昔時平将門、岩淵村の山上より矢を射たるに、前貫、矢颪を過ぎて、此処に落ちたる故祠を立つと云ひ伝ふ。荒唐信ずるに足らずと雖、弁天の祠は存す。

矢の目

弁天の西三丁余の処にあり、矢の落ちしは実に此処なりとも云ふ。 小祠あり。矢の根を矢の目と云ひたるは後世の誤ならむか。

矢下風

矢下風は村の西部を占め、東西十六町、南北十町、人家七十、多くは丘陵に沿ふて散在せり。此村正保の国図及田圃簿に見えず、元禄の国図には載たり。何れの頃。何れの村を割て一村とせしにや。案ずるに前ヶ貫村天保の高は正保の高より其半を減ぜり。恐らくは前貫を割きて、矢下風と名づけしものか。宝永以来黒田豊前守の領地なりき。

琴平山

明治元年浪士退討の際、賊兵、能仁寺に匿逃せし時、脱兵等数百人此山に逃れたり。然れども能仁寺の陥落により四方に離散せり。

浄心寺

曹洞宗通幼派にして能仁寺末、慶長年間村民協力して、古来の衰寺を修営し、能仁第五世吉州伊豚を招請し寂光山浄心寺と称し、伊豚を開山とす。其頃より一寺たりしを伊肝(月に子)の時再興し、宗派寺号を定めたるならむ。左の二堂は元寺の境内にありしを明治九年境外堂とせるもの也。

毘沙門堂

天明三年浄心寺六世良寛の建立也。

薬師堂

創立年月不明なれど、享保十五年、浄心寺四世恭厳再建せし棟札あり。

前ヶ貫

前ヶ貫は矢下風の南に連り、東西南北各四五町、人家五六十。村の異名を塩川と云ひ、曽ては大に通用せり。村内に元塩川と称する真言の寺院ありき。享保十七年以来黒田豊前守の領地たりき。

征矢神社

字砂之宮にあり。村社也。由緒によれば日本武尊東夷征伐の時、千束の矢を備へ、征矢を飾り兵器を連ねて屯し給へりと。後将門の乱に経基東国に下向し、随兵を秘に此地に屯したりと。信ずるに足らず。曽て矢下風前ヶ貫岩淵三村の鎮守たり、明治四十年来左の七神を合祀せり。

八坂社(素盞鳴命)

矢下風字前原にありき

多岐座波社(国常立天御小主)

矢颪字瀧沢にありき

日吉社(猿田彦)

同奥平にありき

琴比羅社(大物主)

同中矢下にありき

秋津社(大日霊)

矢下風字秋津にありき

神明社(大日霊)

前貫字八幡にありき

八幡社(応神天皇)

同八幡にありき

大連寺

字馬貝サビにあり、曹洞宗能仁寺末、創立年月詳ならずと雖、高雲守岳和尚永正三年示寂、別外意伝和尚永禄二年寂、外定存知和尚天文十九年寂、円鑑守才和尚元亀元年寂、霊源知覧和尚天正十三年寂、而して五世を前住と記せる石碑等あり、然れども当時の宗派詳ならず。慶長八年村民協力して定営し、能仁四世格外玄逸を招請し、太平山大連寺と号し、格外を開山とせり、此に於て曹洞となる。

落合

落合は村の南部に位し、東西十二町、南北九町、人家五六十、名栗、成木両川の合する所にあり。

秋葉神社

字中ノ谷にあり、無格社也。創立不明。

西光寺

字道間にあり。曹洞宗通幼派、能仁寺末也、慶長年中の創立にして、能仁寺四世勅持自然禅師格外云逸開祖たり。然れども実は能仁寺にありて、兼務せしものなりと云ふ。而して慶長十八年まで旧本尊の有無明ならざりしを、格外玄逸、鎌倉仏師円秀に托し、今年九月彫刻せしめたりと旧記に存す。

薬師堂

字藤見沢にあり。本尊薬師如来に就ては北条早雲に附会せる伝説あり。

阿須

阿須は村の南部に当り、入間川の南岸に当る。東西十町、南北十一町、戸数五十三。

鎌倉古道

岩沢より来り、金子村寺竹に走る。道幅一間余ありきと云ふ。今の里道も大凡此古道によりて通ぜるものなるべし。

秣野

村の東方瀧の沢辺にあり。昔は岩沢笠縫落合等入会の秣場此辺にありし也。

阿須ヶ崖

風土記の要に曰く、「村の東仏子村界にあり。古は連綿せし山なりしが、入間川洪水の時、山崩れしより、数十丈の崖となれり。下より望めば恰も屏風の如く、又崖の西辺より山間へ入ること二町許にして谷間に一丈より四五丈に及べる崖あり。其中腹或は谷底に槍皮あり。其様恰も太古高堂大厦ありて地中に埋れしものゝ如し。屋根の端と覚しさ所長三四十間、厚三尺許、又大木柱の様なるものありしと云ふ説あり。土人此辺を瀧の沢と云ひ、又大沢と呼ぶ」と。高岸谷となり、深谷陵となる。天地の変革亦偉ならずや。断崖の趣頗雄大崖上の眺望亦甚だ佳也。

要害山及鎧塚

村の東方にあり、阿須山に続き、丘上の比較的高地を占む。付近に陣峯あり。平坦にして狭長なる、丘頂也。此地正平十年の昔高麗彦四郎経澄の陣せし処と覚しく、後の新堀村町田氏文書に所謂「阿須垣原」の戦は蓋し「阿須崖ヶ原』の戦ならん。丘下渓谷の間に鎧塚あり。或は明治二年発堀して石碑六基を得たりと云ひ、或は何物をも出さず。且此地田土の堆積にして、古墳にあらずと云ふ。然れども其形状等より見て恐らく其古墳なるを覚ゆる也。阿須崖、要害山の山脈頗奇異、而して渓谷に古蛇龍潜めりと称す。当年の将士地下に鬼哭して夜嗚するものそれ幾何ぞ。

赤城神社

字山王塚にあり、天正明年の創立なりと棟札に記せり、但其始字 深井にありしを文化二年四月社地山崩によりて今の地に遷せる也。境内広からずと雖亦幽邃也。

大山神社

字孫治山にあり、無格社也、天和二年九月の創立と言伝ふ。

長沢寺

字山王坂にあり、曹洞宗通助派能仁寺末虚空蔵を本尊とす、創立年月不明なれど、境内建久三壬子年四月一日を初とし、元享、元徳、康永、応安の古苔碑現存せりと云ふ、(著者は之を見ず)。且古老の口碑にも其頃已に創立ありしが如く伝ふ、寛永年間能仁寺七世文広道徳風化し、遂に中興開山となると、過去帳に明記せり.文広は寛永十二年八月廿八日寂すと云、(碑あり)丘上の寺堂清浄にして、境内極めて閑静也。