1. 入間郡誌序
  2. 序(高田早苗)
  3. 序(吉田東伍)
  4. 序(松崎求已)
  5. 例言

入間郡誌序

安部立郎君は篤学の士なり頃者ー書を懐にし来りて余に請ひて曰く夫れ本郡の地たる武蔵野の中央に位し八州の要衝に当り古来群雄崛起吶喊驅馳の跡所在比々としてあらざるはなし且夫れ本郡は土壌膏腴家給し人足り生業豊にして産物に富む吾儕郡内に棲息するもの豈之れが研究を忽にすべけんや然るに本郡従来此種の著述に乏しく青年後学の士亦之を尋討するに由なし立郎私に以て憾となす乃庸陋の譏を顧みみず之れが編纂を企て東馳西奔実査三裘葛漸く以て此稿を成せり剪劣の筆敢て大方を利すると謂ふにあらず聊か以て研究の一助となさんと欲するのみ若し二百の辞を賜ひ之を世に公にすることを得ば或は青年子弟を裨益するに足らんと嗚呼郷土を愛するは郷土を知るより善きは無く郷土を知るは郷土を研究するより善きは無し余乏を本郡長に承くると茲に数年常に郡誌の欠漏を憂ひ又其資料の備はらざるを慨せり安部君の此の挙先づ吾意を獲たるもの豈欣喜賛襄せざらんや然りと雖余は史事に盲なり本書の真価を定むるに足らず唯夫れ読者此書によりて本郡研究の緒を求めば徒に其地勢を知り風物を察するに止ま らず其愛郷の念を鼓舞し以て教化に資する所尠少にあらざるべきを信ず然らば則安部君の此著永く陳呉の功を擅にするに足らん序言の請豈辞すべけんや欣然筆を執て之を誌すと云ふ

大正元年十月下浣

埼玉県入問郡長市川春太郎

序(高田早苗)

大正元年十一月 皇上武ヲ埼玉県下ニ閲ミシ川越町ヲ以テ駐輦ノ地ト定メ給フ是ニ於テ同町ノ有志感激シテ措ク能ハズ相謀リテ同町ノ施設ヲー新センコトニ努メタり此時ニ当リ安部立郎君入間郡誌ヲ編述シー面以テ川越地方ノ為メニ幽ヲ闡キ微ヲ顕ハスト共ニー面以テ不時ノ行幸ヲ得タル光栄ヲ紀念ス ルノー助ニ供セントス予ハ其企図ノ决シテ徒爾ナラザルヲ信ズル也

蓋シ川越ノ地ハ頗ル由緒ニ富ミ古ノ国造時代ヨリ武家時代ヲ経テ近ク明治維新ノ初メニ至ルマデ千有余年間特殊ノ発達ヲ遂ゲシ事実歴々微スベキモノ有ルノミナラズ明治年代トナリ世態ー変ノ今日ニ及ビテモ同地ハ夙ニ埼玉県下ニ於ケル第ー ノ都会トシテ推奨セラレ往年偶々祝融ノ禍ニ罹リ市街ノ強半ヲ焼夷セラレシコト有リト雖モ未ダ幾バクナラズシテ旧観ヲ復シ其ノ鬱勃夕ル隆興ノ気運更ニ大ニ他日ノ発展ヲ促シシ、アリ此ノ際幸ニ古今沿革ノ大要ヲ詳ニスル好個一篇ノ地方史ヲ編述スルアラバ誦読ノ間郷邑子弟ヲシテ自カラ感奮興起セ シムルモノ有ラン予ハ此ノ意味ニ於テ特ニ安部君今次ノ挙ヲ賛セザルヲ得ザル也

抑モ目下一部ノ人士ニヨリテ意見ヲ発表セラレツゝアル大正時代国運消長ノ予測ハ固ヨリ軽々シク口ニスベキ所ニ非ラズト雖モ苟クモ民衆ニシテ協同一致富国強兵ノ目的ヲ達セント期シ奮励努力誓ツテ皇謨ヲ翼賛スルニ於テハ固∃リ明治聖帝ノ遺緒ヲ失墜スルコト無キヤ論ヲ俟タズ而シテ強兵ノー事ハ我ガ忠勇ナル豼貅ニ信頼シテ意ヲ安ズルニ足ルモノ有リトスルモ富国ノ実ヲ挙グベキ殖産興業ノ問題ハ談誠ニ容易ナラザルモノアリ此ノ時ニ当リ夙ニ一地方商業上ノ枢機ヲ握レル川越町ノ有志ニシテ率先シテ其ノ郷邑子弟ノ感奮興起ニ資スル所以ノ事業ニ指ヲ染ムルアリ予ハ其ノ事ノ最モ宜キヲ得タルヲ喜バズンバアラズ

之レヲ要スルニ過去ニ於ケル川越地方ノ歴史ハ政治上軍事上将夕宗教上等ヨリ観察シテ斉シク名誉アル発達ノ記録タルヲ妨ゲザルモノナランモ今後世人ガ特ニ重キヲ置クモノハ其ノ商業上ノ発展也何トナレバ今日ノ民衆ハ明治ノ偉業ヲ継紹シテ大正ノ隆治ニ貢献セザルベカラザル職責ヲ有スル者ナルガ ユヘ川越人士ノ立場ヨリ之レヲ言フモ単ニ過去ニ於ケル由緒ノミヲ以テ満足スベキニ非ズシテ更ニ将来ニ於テ其ノ記録ノ頁ヲ飾ルベキ活躍ヲ要シ而カモ其ノ活躍夕ル主トシテ平和ノ競争場裡ニ優勝ノ位地ヲ占ムル実業界ノ開拓ニ存スレバ也川越町ノ有志ハ世態ノー変セル今日必ズ深ク世人期待ノ在ル所ヲ察セザルベカラザル也

予ヤ年来東京ニ居住スト雖モ川越地方トハ甚ダ浅カラザル縁故ヲ有スル者乃チ今次ノ入間郡誌編述ニ際シ序ヲ請ハレタルヲ以テ敢ヘテ之レヲ辞セズ直チニ感想ノー斑ヲ書シテ需メニ応ズルコトゝ為セリ蓋シ川越地方将来ノ発展ヲ冀フ至情ニ於テ决シテ人後ニ落チザルベキヲ自信スレバ也

大正元年十月

高田早苗

序(吉田東伍)

武蔵は、我邦東方の大国にして、之を山海の二道に視るも交会の要枢にあたり、又、坂関の八州に於いては富強の称首たり。 而して入間郡は、其中央に居り、実に武蔵野の奥区とす。 古人の謂はゆる「四方八百里の草の原、月の入るべき山も無し」、此地中世までの莽蒼たる光景は、想ふにも余りあり。 近世に至りては、河越を其大邑とし、江戸幕府近世の重鎮たり。 予は去年河越に遊びて、該郡の勝跡を訪ひ遺事を聞き、其古今の大略を得たり、則ますヽ地理と人事の相待ちて盛衰囚果する所あるを覚り、感慨之を久しくす。 上古史伝の口誦に拠れば、武蔵と秩父は相分ち、而も其武蔵は又三水の区域を備ふ、多摩川、入間川、秩父荒川是なり。 入間の一路は万葉集に伊利麻治といひ、入間より豊島、足立にわたる地域を泛称するも可なり。 上古の部族、此間に繁栄せる者、天孫出雲氏、天神物部氏等ありて、草莱開拓の首功を立つ。 入間に在りては、氷川神といふ(郡家の遺称ある久下戸村に存す)即出雲氏の氏神なり、三芳野神社といふは、軈て安刀物部の氏神ならむ。 国郡制置の初め、武蔵は山道に属せしめられ、国府を多摩郡に置かる。 而して其閑地には高麗新羅の帰化人を移住せしめらるゝや、入間郡の左右の辺裔を割きたるものの如し、所謂高麗郡、新羅(後世新座と改む)郡是なり。 蕃種の特殊殖民は、我歴史にも古今稀有の一例とす、其始末、亦多少の論証すべきものあり、其後、武蔵は東海道に転属し、官道、駅路は豊島郡へ移るも、多摩府より上野、下野への山道を連絡するには、依然として入間郡を横過せる如し。 安刀郷は上戸と訛ると雖、在原業平の東国旅行、「たのむの雁」の古塚を伝ふるにあらずや。 是は、口誦時代の遺跡と文献時代の逸事を混淆すと雖、採訪者は当に別に観る所あるべし。 中世武士の競ひ起るに及び、河越、江戸の二庄(新日吉社領なれば延暦寺妙法院を本家とせる歟)山海両道に当りて開発せられ、共に本州留守所総検校平重綱の経営に係るに似たり。 やがて、河越江戸の二家を生じたり。 当時、河越氏は殊に武蔵諸党の高家に推されたるを見れば、坂東平氏の巨魁なりけむ。 鎌倉幕府は畠山重忠を任用し、河越重頼江戸重長の二氏稍衰ふ、而も畠山氏も二代にして替り、(足利源氏に変化す)河越氏は本州の高家として、独久しく其名を保てり。 凡、河越、江戸の二地頭家を比較するに、中世に於て河越固より本宗にして又盛栄す、江戸は遜色を免れず。 武蔵野の大戦しばヽあるに及び、山道海道、共に兵馬の馳駆を見る。 而も、多摩府と毛信北国との通路か、山道に由るを以て、軍事上には、毎に入間川宿を以て重要と為す、形勢想ふべし。 但し、河越庄の旧地頭家は、此間に衰滅し、上杉氏の雄を称し覇を図るに至れば、東国の江山皆戦図に入り、干戈連年なり。 上杉の将太田氏が、河越、江戸、岩槻に築塁して、古河公方(足利氏)に対抗したるは、実に長禄中の事にして、安刀郷の河越を転じて山田郷に移したるも、此時といふ。 当時、鎌倉焚毀せられて赤土に殆し、東国の文物と繁華は、消散の運に在り。 その幸にして扇谷上杉氏の君臣に従ひて保たるゝ者は、之を河越、もしくは江戸に留存したるのみ。 是より河越は、其上越なる山内上杉氏との通路を維持するの地なれば、殊に重鎮に推され、此の形勢は天文天正年中に及ぶも変せず。 上杉太田氏敗亡するも、大道寺氏は小田原北条家の代将として之れに居り、屹と武州の首府たり、江戸、岩槻、瀧山(八王子)鉢形等に凌駕して、其上に在り。 且、関左の文教権が、仙波喜多院の天海僧正、蓮馨寺の感誉上人越生龍穏寺の良加和尚等に囚りて、之を河越に保持せられしことを考ふれば、鎌倉の文物繁栄は、必しも小田原に移れるに非ず、むしろ之を河越に求むべきに似たり。 地理と人事の関係、深く省察せざるべからず。 已にして、小田原城陷り、徳川氏江戸に入部し、形勢此に大一変す。 江戸は一躍して東国の首府となり、再起しては天下の大都と為る。 河越は復之と竸ふ能はず、是より其近郡の鎮所たるに過ぎず。 之に加ふるに、江戸を中心とする交通路は、中山道を足立郡(浦和大宮)に擇みしより、河越は全く偏隅孤立の一邑に変す。 爾後治水の上(秩父荒川を入間川に合流又玉川上水を郡内に分つ)産業の上に、近世幾多の善政奇功を施したりと雖、大勢に於いて回す所無し、囚循以て今日に至る、豈感慨の情なからむや。 大正改元の十月、たまヽ入間郡誌の刊行を聞き、所思抑へ難く、やがて拙文を草して之に贈呈し、同好者の一読を希ふといふのみ。

吉田東伍

序(松崎求已)

入間の地、古来武州の要枢、古蹟の伝ふべきもの頗る多し。 幸にして新編武蔵風土記のあるあり、以て其の一般を知ることを得たり。 然れども本書の浩瀚なる容易に求め難く、且つ星移り物換り当時の塁址は隴畝と化し、口碑も亦伝を失ひ、たまヽ踏査を企つるもの、往々にして茫然自失を免れず。 況んや史学の進歩が、旧時と其の見解を異にするものあるに於てをや。

著者安部氏は入間郡川越の人なり。 曽て東都に学び業成りて家に帰り、専ら公共の事に尽瘁し、傍ら心を史に潜め惓まず怠らず。 時に竹の杖を曳いて郡内史蹟を踏査し足迹至らざるなし。 予て風土記の後を承け、其の変遷を詳にし之を正さんの志あり。 予其の勵且つ精なるを欽す。

会々今秋大演習の挙あり。 聖上臨御親しく之を統べ給ひ、入間の原野之が中心となる。 是に於てか郡衙之を機として郡志を編せんと欲す。 氏選まれて之を助く。 而して氏は又別に見る所あり、独特の史眼に照して一書を公にし、郷土の事蹟を闡明すると与に、後進をして愛土の念を喚起せしめんと欲 す。 予大に之を賛す。 今や稿既に成り将に梓に上さんとするに臨み、来りて予に序せんことを求む。 予職を中学に奉じ史を講ずる茲に年あり。 時々氏と論談して夜の更くるを覚えざるもの、誼何ぞ辞すべけん。 乃も編著の来由を叙して其の序に代ふ。

大正元年十月二十三日

文学士 松崎求已

例言

一、本書は元九百頁に達すべかりしが、紙幅の甚だしく尨大なるを恐れ、大に削減を加へて、七百頁以下に縮少するを得たり。 従て説述上幾分の損失なき能はずと雖、閲読に際しては寧ろ多少の便あらん。

二、第一章総説の部は削減の最も行はれたる所にして、各節往々綱目を掲くるに止まるやの観なきにあらず。 若し第五節郷土の沿革諸誌上(社寺志、遺物及 遺蹟志、道路及宿駅志)、第六節同下(郡郷村里志、地名研究、伝説及説話)の二節を加へなば体裁稍や整はん。 今割愛に従へり。

三、第二章川越町の部も亦稍や斧鉞を加へ、第七節年中行事、第八節古来の説話の二節を省き、第五節社寺の説述の如きも甚だ簡ならしめたり。

四、第三章以下各町村の配合に至ては頗る意を用ゐたりと雖、或は未だ十分なるを得ぎりしを遺憾とす。

五、各町村の部は先づ総説(現状沿革等)を述べて各大字に及び其社寺名勝旧蹟等を明にせり。 大字なき町村は直に現状・沿革・社寺・古蹟等の小目を設け、別に小 字の名称を掲げたり。

六、町村の戸口は明治四十四年末の調査に従ひ、各大字の戸数は大約を示し、物産、土質、山川の如きも大体を叙するに止めたり。 道路は主として県道を掲げ、里程は町村の中央部を基点として大数を出せるのみ。

七、社寺の来歴に就ては社寺各其立場あり。 然れども本書は本書一流の見解を守れり。 極端なる説は断じて編者の探らざる所収りと雖、或は往々神戚仏縁を侵害したるの批難を免れざるべし。

八、各地の古蹟に関しても不幸頗る地方篤志家の寄託に背けるものあり。 編者の罪也。

九、旧家を掲載するは風土記以下の例なるが如し。 然れども編者は別に見る所ありて之を廃せり。 唯特に必要なるもの、若くは一般に知られたるものは他の項下に於て往々之に及べるものあり。

一〇、神社の祭神、寺院の本尊等は一々記さず。 旧幕の頃に必要なる朱印の如きも成るべく之を省けり。 各地の検地亦然り。 唯神社には社格(県社・郷社・村社)を記し、寺院には宗末を掲げ、創立年代を知らんがために煩はしきを忍て大抵開山の僧侶及其示寂年月を出したり。

一一、郡内の寺院にして末寺を有すること比較的多きは左の数寺とす。 喜多院中院 川越町小仙波、天台宗。 灌頂院 古谷村古谷本郷、天台宗。 蓮光寺 南古谷村渋井、曹洞宗。 能仁寺 飯能町、 同。 聖天院 高麗村新堀、真言宗新義派(郡内の真言宗は凡て新義派也)。 大智寺 勝呂村石井 同。 法恩寺 越生町 同。 龍穏寺 梅園村龍ヶ谷 曹洞宗。

又修験は今は廃されたれども、当山派(真言)及本山派(天台)あり。 郡内には本山派多く当山派は其半に足らず。 水富村笹井観音堂川角村西戸山本坊南畑村十玉院高萩村高萩院の如きは本山派の雄なりき。

一二、本書の材料は出来得る限り、各方而より蒐集したりと雖、資料尚十分ならざるもの多く、殊に各地往々繁簡宜しきを得ざるものあり。 編者微力の致す所也。

一三、本書挿むに附図を以てすと雖、詳しくは陸地測量部五万分一地図に就て対照せられたし。

一四、本書編述に際しては市川入間郡長、田島第一課長及郡衙関係の人々の好意は勿論、地方先輩、同窓学友、乃至各地の特志家の力に待つ所少からず。 沿革の記事に関しては川越中学校教頭松崎文学士の有益なる助言を得たること少からず。 本書の兎も角も脱稿し得たるもの凡て諸氏の賜也。

大正元年十月二十日

編者

例言追加

地名伝説とは某の地名の起原を説明せんがために一般に伝承せらるゝ説話にして、其多数は該地名に用ゐらるゝ漢字の意味を転用するもの也。

原故に堀内、堂山、塚原、市場、の如き地名は大抵或歴史的事実を暗示すれど、駒林の地名を駒が林中に死したるによるなどゝ解くの類は決して信ずべからず。地名伝説の一例也。

伝説々話の類は直に歴史事実とすべからざるもの多しと雖、別に伝説若くは説話として保存すべく、参考に値するもの少からず。

板碑とは大抵秩父青石にて成れる板状の墓碑にして関東地方に多し。

其年代は鎌倉及室町の両時代に属す。

本書通読に際しては地図の外成るべく年表をも坐右に備へられんことを切望す。