大正元年十一月 皇上武ヲ埼玉県下ニ閲ミシ川越町ヲ以テ駐輦ノ地ト定メ給フ是ニ於テ同町ノ有志感激シテ措ク能ハズ相謀リテ同町ノ施設ヲー新センコトニ努メタり此時ニ当リ安部立郎君入間郡誌ヲ編述シー面以テ川越地方ノ為メニ幽ヲ闡キ微ヲ顕ハスト共ニー面以テ不時ノ行幸ヲ得タル光栄ヲ紀念ス
ルノー助ニ供セントス予ハ其企図ノ决シテ徒爾ナラザルヲ信ズル也
蓋シ川越ノ地ハ頗ル由緒ニ富ミ古ノ国造時代ヨリ武家時代ヲ経テ近ク明治維新ノ初メニ至ルマデ千有余年間特殊ノ発達ヲ遂ゲシ事実歴々微スベキモノ有ルノミナラズ明治年代トナリ世態ー変ノ今日ニ及ビテモ同地ハ夙ニ埼玉県下ニ於ケル第ー
ノ都会トシテ推奨セラレ往年偶々祝融ノ禍ニ罹リ市街ノ強半ヲ焼夷セラレシコト有リト雖モ未ダ幾バクナラズシテ旧観ヲ復シ其ノ鬱勃夕ル隆興ノ気運更ニ大ニ他日ノ発展ヲ促シシ、アリ此ノ際幸ニ古今沿革ノ大要ヲ詳ニスル好個一篇ノ地方史ヲ編述スルアラバ誦読ノ間郷邑子弟ヲシテ自カラ感奮興起セ
シムルモノ有ラン予ハ此ノ意味ニ於テ特ニ安部君今次ノ挙ヲ賛セザルヲ得ザル也
抑モ目下一部ノ人士ニヨリテ意見ヲ発表セラレツゝアル大正時代国運消長ノ予測ハ固ヨリ軽々シク口ニスベキ所ニ非ラズト雖モ苟クモ民衆ニシテ協同一致富国強兵ノ目的ヲ達セント期シ奮励努力誓ツテ皇謨ヲ翼賛スルニ於テハ固∃リ明治聖帝ノ遺緒ヲ失墜スルコト無キヤ論ヲ俟タズ而シテ強兵ノー事ハ我ガ忠勇ナル豼貅ニ信頼シテ意ヲ安ズルニ足ルモノ有リトスルモ富国ノ実ヲ挙グベキ殖産興業ノ問題ハ談誠ニ容易ナラザルモノアリ此ノ時ニ当リ夙ニ一地方商業上ノ枢機ヲ握レル川越町ノ有志ニシテ率先シテ其ノ郷邑子弟ノ感奮興起ニ資スル所以ノ事業ニ指ヲ染ムルアリ予ハ其ノ事ノ最モ宜キヲ得タルヲ喜バズンバアラズ
之レヲ要スルニ過去ニ於ケル川越地方ノ歴史ハ政治上軍事上将夕宗教上等ヨリ観察シテ斉シク名誉アル発達ノ記録タルヲ妨ゲザルモノナランモ今後世人ガ特ニ重キヲ置クモノハ其ノ商業上ノ発展也何トナレバ今日ノ民衆ハ明治ノ偉業ヲ継紹シテ大正ノ隆治ニ貢献セザルベカラザル職責ヲ有スル者ナルガ
ユヘ川越人士ノ立場ヨリ之レヲ言フモ単ニ過去ニ於ケル由緒ノミヲ以テ満足スベキニ非ズシテ更ニ将来ニ於テ其ノ記録ノ頁ヲ飾ルベキ活躍ヲ要シ而カモ其ノ活躍夕ル主トシテ平和ノ競争場裡ニ優勝ノ位地ヲ占ムル実業界ノ開拓ニ存スレバ也川越町ノ有志ハ世態ノー変セル今日必ズ深ク世人期待ノ在ル所ヲ察セザルベカラザル也
予ヤ年来東京ニ居住スト雖モ川越地方トハ甚ダ浅カラザル縁故ヲ有スル者乃チ今次ノ入間郡誌編述ニ際シ序ヲ請ハレタルヲ以テ敢ヘテ之レヲ辞セズ直チニ感想ノー斑ヲ書シテ需メニ応ズルコトゝ為セリ蓋シ川越地方将来ノ発展ヲ冀フ至情ニ於テ决シテ人後ニ落チザルベキヲ自信スレバ也
大正元年十月
高田早苗
入間の地、古来武州の要枢、古蹟の伝ふべきもの頗る多し。
幸にして新編武蔵風土記のあるあり、以て其の一般を知ることを得たり。
然れども本書の浩瀚なる容易に求め難く、且つ星移り物換り当時の塁址は隴畝と化し、口碑も亦伝を失ひ、たまヽ踏査を企つるもの、往々にして茫然自失を免れず。
況んや史学の進歩が、旧時と其の見解を異にするものあるに於てをや。
著者安部氏は入間郡川越の人なり。
曽て東都に学び業成りて家に帰り、専ら公共の事に尽瘁し、傍ら心を史に潜め惓まず怠らず。
時に竹の杖を曳いて郡内史蹟を踏査し足迹至らざるなし。
予て風土記の後を承け、其の変遷を詳にし之を正さんの志あり。
予其の勵且つ精なるを欽す。
会々今秋大演習の挙あり。
聖上臨御親しく之を統べ給ひ、入間の原野之が中心となる。
是に於てか郡衙之を機として郡志を編せんと欲す。
氏選まれて之を助く。
而して氏は又別に見る所あり、独特の史眼に照して一書を公にし、郷土の事蹟を闡明すると与に、後進をして愛土の念を喚起せしめんと欲
す。
予大に之を賛す。
今や稿既に成り将に梓に上さんとするに臨み、来りて予に序せんことを求む。
予職を中学に奉じ史を講ずる茲に年あり。
時々氏と論談して夜の更くるを覚えざるもの、誼何ぞ辞すべけん。
乃も編著の来由を叙して其の序に代ふ。
大正元年十月二十三日
文学士 松崎求已
一、本書は元九百頁に達すべかりしが、紙幅の甚だしく尨大なるを恐れ、大に削減を加へて、七百頁以下に縮少するを得たり。
従て説述上幾分の損失なき能はずと雖、閲読に際しては寧ろ多少の便あらん。
二、第一章総説の部は削減の最も行はれたる所にして、各節往々綱目を掲くるに止まるやの観なきにあらず。
若し第五節郷土の沿革諸誌上(社寺志、遺物及 遺蹟志、道路及宿駅志)、第六節同下(郡郷村里志、地名研究、伝説及説話)の二節を加へなば体裁稍や整はん。
今割愛に従へり。
三、第二章川越町の部も亦稍や斧鉞を加へ、第七節年中行事、第八節古来の説話の二節を省き、第五節社寺の説述の如きも甚だ簡ならしめたり。
四、第三章以下各町村の配合に至ては頗る意を用ゐたりと雖、或は未だ十分なるを得ぎりしを遺憾とす。
五、各町村の部は先づ総説(現状沿革等)を述べて各大字に及び其社寺名勝旧蹟等を明にせり。
大字なき町村は直に現状・沿革・社寺・古蹟等の小目を設け、別に小
字の名称を掲げたり。
六、町村の戸口は明治四十四年末の調査に従ひ、各大字の戸数は大約を示し、物産、土質、山川の如きも大体を叙するに止めたり。
道路は主として県道を掲げ、里程は町村の中央部を基点として大数を出せるのみ。
七、社寺の来歴に就ては社寺各其立場あり。
然れども本書は本書一流の見解を守れり。
極端なる説は断じて編者の探らざる所収りと雖、或は往々神戚仏縁を侵害したるの批難を免れざるべし。
八、各地の古蹟に関しても不幸頗る地方篤志家の寄託に背けるものあり。
編者の罪也。
九、旧家を掲載するは風土記以下の例なるが如し。
然れども編者は別に見る所ありて之を廃せり。
唯特に必要なるもの、若くは一般に知られたるものは他の項下に於て往々之に及べるものあり。
一〇、神社の祭神、寺院の本尊等は一々記さず。
旧幕の頃に必要なる朱印の如きも成るべく之を省けり。
各地の検地亦然り。
唯神社には社格(県社・郷社・村社)を記し、寺院には宗末を掲げ、創立年代を知らんがために煩はしきを忍て大抵開山の僧侶及其示寂年月を出したり。
一一、郡内の寺院にして末寺を有すること比較的多きは左の数寺とす。
喜多院及中院 川越町小仙波、天台宗。
灌頂院 古谷村古谷本郷、天台宗。
蓮光寺 南古谷村渋井、曹洞宗。
能仁寺 飯能町、 同。
聖天院 高麗村新堀、真言宗新義派(郡内の真言宗は凡て新義派也)。
大智寺 勝呂村石井 同。
法恩寺 越生町 同。
龍穏寺 梅園村龍ヶ谷 曹洞宗。
又修験は今は廃されたれども、当山派(真言)及本山派(天台)あり。
郡内には本山派多く当山派は其半に足らず。
水富村笹井観音堂、川角村西戸山本坊、南畑村十玉院、高萩村高萩院の如きは本山派の雄なりき。
一二、本書の材料は出来得る限り、各方而より蒐集したりと雖、資料尚十分ならざるもの多く、殊に各地往々繁簡宜しきを得ざるものあり。
編者微力の致す所也。
一三、本書挿むに附図を以てすと雖、詳しくは陸地測量部五万分一地図に就て対照せられたし。
一四、本書編述に際しては市川入間郡長、田島第一課長及郡衙関係の人々の好意は勿論、地方先輩、同窓学友、乃至各地の特志家の力に待つ所少からず。
沿革の記事に関しては川越中学校教頭松崎文学士の有益なる助言を得たること少からず。
本書の兎も角も脱稿し得たるもの凡て諸氏の賜也。
大正元年十月二十日
編者
例言追加
地名伝説とは某の地名の起原を説明せんがために一般に伝承せらるゝ説話にして、其多数は該地名に用ゐらるゝ漢字の意味を転用するもの也。
原故に堀内、堂山、塚原、市場、の如き地名は大抵或歴史的事実を暗示すれど、駒林の地名を駒が林中に死したるによるなどゝ解くの類は決して信ずべからず。地名伝説の一例也。
伝説々話の類は直に歴史事実とすべからざるもの多しと雖、別に伝説若くは説話として保存すべく、参考に値するもの少からず。
板碑とは大抵秩父青石にて成れる板状の墓碑にして関東地方に多し。
其年代は鎌倉及室町の両時代に属す。
本書通読に際しては地図の外成るべく年表をも坐右に備へられんことを切望す。