明治時代

維新の変革

幕末維新の頃、勤王攘夷の説を唱道し、志士遂に身を抛て国事に殉せしもの少からず、川越の西川練造、斉藤彦麿、毛呂の権田直弼、入西竹内啓三芳野の桜国輔、飯能の小川香魚、(其同志松田正雄)等の如き是也。 斉藤彦麿は学者にして著書多く、尊王諭を唱ふ。 川越藩の人也。 西川練造は川越小仙波の人、夙に勤王論を唱え頗る力めたりしが、後遂に牢死せりと云ふ。 権田直弼は毛呂本郷の人、国学者にして、後阿夫利神社の司官となる。 竹内啓は下総に仆れ、 桜国輔、 小川香魚は同志松田正雄と仙波村に死せり。 何れも大政奉還に先つと甚だ遠からず。 江戸引渡の後幕府の残党は上野に拠りて破れ、更に遠れて飯能に拠るもの数百、佐上原藩、川越藩、官軍の先鋒として左右より攻め来り、遂に敵せずして、梅園秩父地方に退却し、事平ぐるを得たり。 (飯能町の条参照)

県制

王政維新の後、廃藩置県、郡県制定、地方自治施行の事業漸を以て行はれ、国基全く定るに至る、地方制の変遷を見れば実に苦心の跡歴々たるを覚ゆ。

明治元年八月支配地及釆地は凡て之を収容して、武蔵県となし、知県事古河一平之を管す。 二年二月に至り、之を品川県と改め、同年八月更に之を韮山県に移し、領地は二年之を藩と改称し、川越藩、岩槻藩等と名け、次で四年七月に至り、愈々廃藩置県の英断に出づ、然も先づ旧藩のまゝに従て、之を川越県、岩槻県等となし、藩主を以て知事に充つ、此時に当て郡内を見るに、川越、岩槻、古河、前橋以下の諸県、処在に散布錯綜し、之に交ゆるに韮山県を以てす。 其一歩を進めて、全体を円満に統括し得べき制の必要となるや諭なき也。 果せる哉四年十一月に至て、前述諸県を全廃し、而して郡内及付近諸郡を以て入間県の下に一括し、県衙を川越に定めたり。 先之社寺領は既に上地となりて、韮山県に合したるあり、或は是より以後上地して入間県に合したるあり。 何れも逓減禄を以て旧領に代ヘたり。 其後入間県と群馬県を合するの必要は明治六年七月に至て、熊谷県の設置となり、入間県は其中に入り、九年旧群馬県と分れて、旧入間県に合するに当時の埼玉県を以てし、此に於て今日の埼玉県は始めて完成し、浦和町は県庁所在地となれり。 以上を県制の沿革とす。

区制及郡制

明治の始、小藩割拠し、猫額の地夫々境を異にするの時に当ては、県制内の区分を要せずと雖、明治四年入間県の下に一円所轄せらるゝに及び、茲に区分法は案出せられ、明治五年一月大小区の制発表せられたり。 此大小区は六年熊谷県に移れるの後も依然として存続し、唯旧群馬県の大小区には北第何大区何小区と冠し、旧入間県の大小区に南第何大区何小区と冠したり。 今左に明治七年八月に於ける熊谷県の大小区(入間郡に関係あるもの)を記載せん。 (上出の数字は小区也)

南第一大区(入間比企の内)

一、(一大区一小区)
二、(一大区二小区)
三、(一大区三小区)
四、(一大区四小区)
五、(一大区五小区)
六、(一大区六小区)

(以下比企郡)

七、八、九

(比企郡)

南第二大区(入間新坐の内)

一、(二大区一小区)
二、(二大区二小区)
三、(二大区三小区)
四、(二大区四小区)
五、(二大区五小区)

(外新坐郡)

六、七、

(新坐郡)

南第三大区(入間の内)

一、(三大区一小区)
二、(三大区二小区)
三、(三大区三小区)
四、(三大区四小区)
五、(三大区五小区)
六、(三大区六小区)
七、(三大区七小区)

南第四大区(高麗秩父の内)

一、(四大区一小区)
二、(四大区二小区)
三、(四大区三小区)
四、(四大区四小区)
五、(四大区五小区)
六、(四大区六小区)
七、(四大区七小区)
八、(四大区八小区)
九、(四大区九小区)

(以下秩父郡)

十、(四大区十小区)

南五大区(入間高麗比企の内)

一、(五大区一小区)
二、(五大区二小区)

(比企郡)

三、(五大区三小区)
四、(五大区四小区)
五、(五大区五小区)
六、(五大区六小区)
七、(五大区七小区)
八、(五大区八小区)

(比企郡)

南第六大区より南第十大区までは今の比企、大里、児玉、秩父諸郡に属す。

大小区何れも区長あり。

明治十二年四月大小区の制を廃し、郡役所を設け、郡の範囲は大抵古制に従て之を定めたり。 此に於て入間郡あり、高麗郡あり、両郡を併せて、 入間高麗郡役所を川越町に設く。 此に於て郡衙の基礎始めて開け、其後大岱村を以て多摩郡の日比田村と交換し、小用村を以て比企郡の麦原古池二村と交換し、 明治二十九年四月更に比企郡植木村を併せ、 而して入間高麗両郡を一として、入間郡と改めたり。

町村制

明治の始より村制は全然旧幕の状に従ひ、唯従来の名主を戸長とし、組頭を副戸長とし、百姓代を総代と改称し、大小区に属して夫々村務を掌らしめしが、明治も漸く進で十七年となるに及び、茲に町村制の布かるる過渡的制度として、町村連合戸長役場の設立を見るに至れり。 当時の戸長役場には戸長、助役、収入役、書記等あり、又村内より議員を出したる等、頗る自治制の端緒と見るべきものあり。 今左に二十年一月現在の連合制を掲出せん。 △印は戸長役場所在地

川越町

大仙波新田

豊田新田

小室

志垂

北田島

古谷上

並木

砂新田

古市場

大井

鶴間村

宗岡村

上南畑

藤久保

南永井

所沢町

下新井

神米金

山口村

三ヶ島村

二本木村

扇町屋

黒須

寺竹

北入曽

下赤坂

入間川村

山城

横沼

石井

坂戸村

新堀

森戸

川角村

毛呂本郷

越生町

大満

以上旧入間郡

鯨井

上広谷

笠幡

根岸

高萩

鹿山

梅原

虎秀

小久保

飯能町

岩沢

下直竹

原市場村

以上旧高麗郡

出丸中郷

外四村

以上旧比企郡

明治二十二年四月に至て今日の町村制成り、五十二の連合戸長役場は六十二の町村役場となれり。

明治十六年全郡の戸数二万八千百六十九戸、人口十六万九百二十四。 同二十年一月全郡の町数四、村数三百七十五、戸数二万七千八百八十四、人口十六万四千百六十、有税地四千六百八十五万四千二百四十七町三段あり。