江戸時代
通説
天正十八年七月小田原陷り、徳川家康関東に主となり、 江戸城に居りて、天下に重きを為せしが、慶長三年豊臣秀吉薨じ、四年前田利家薨じ、家康の勢益々盛大にして、五年関ヶ原の役あり。 十九年一たび大坂を囲み、翌元和元年再び攻めて遂に之を滅し、此に於て全国は確実に徳川氏の掌中に帰せり。 翌年家康薨ず。
家康の江戸にあるや、放鷹によりて屡々川越付近の地を訪ひ、天正十九年、慶長十年、十六年、十七年等は其明に知られたるもの也。 鷹匠は即ち川越町鷹部屋にありて、南に餌差町(今の境町)あり。 更に豊田付近に鶴代(ツルシロ)あり。 野田新田の宝林菴は曽て荼を献じたる所と称す。
家康心を内治に用ゐ、儒学を起し、神仏を崇び、しきりに社寺の復興に力を用ゐ、為に川越喜多院の如き頗る振ふを得たり。 其他法制を立て、民政を布き、道路を治め、一里塚を築かしめ(慶長九年)、江戸三百年の基礎全く定まれり。 薨じて久能山に葬り、元和三年、久能山より日光に移し、府中より入りて郡内所沢の辺に出て、川越仙波に駐ると四日、遂に下野に至る。 之を以て寛永十年喜多院の傍に東照宮を造営す。
二代秀忠を経て、三代家光に至り、克く父祖の業を継で、幕府の基礎牢乎として抜くべからず。 偶々鳥原の変あり。 川越城主松平信綱、征討して功あり。 其時の捕虜若干を携へて、川越中原町の付近に囚せしとあり。 之より基督教は厳禁せられ、漸次宗門改、路絵等の事行はるゝに至れり。 植木村に存する文書は之に関する詳細の訓令を網羅し、当時各村の名主に示達せられたる所也。
四代家綱の始、由井正雪の乱あり、次て浪人改の令あり。 関所の如きは夙に存在したりと雖、益々之を厳にし、女手形の制を定めたり。 五代綱吉に至り、柳沢保明登用せられ、遂に松平美濃守吉保と称し、川越三万石を食み(元禄七年)、やがて甲府に遷る。 綱吉殺生禁断の制を出し、犬小屋を立てしめ、鷹部屋、鷹匠を廃し、餌差町の町名を改めしむ。
六代家宣の時、殺生の禁を解き、新井白石を用ゐ、治世見るべきものあり、八代吉宗は即徳川氏中興の賢主也。 此頃青木昆陽出でゝ、甘藷の栽培あり。 十一代家斉の頃塙保己一あり。 此頃各地の講社弊害ありしにや、窟士講を禁じたるとあり、十二代家慶の時、水野忠邦老中となり、極端なる節険主義を行へり、恰も此頃既に海防警あり、勤王の論、攘夷の説と、処在漸く起り、十五代慶喜に至て王政維新となれり。
土地
徳川氏の時代に当ては、全国の土地を直轄地、領地、采地、及社寺領に分てり。 直轄地は所謂天領にして、幕府に直隸し、代官之を支配するに由て、支配地と名け、領地は所謂大名之を如し、采地は麾下の士の知行、寺社領は朱印を以て社寺に附与せし土地を云ふ。
此等の各領何れも領主乃至代官を変更すると頻繁にして、川越城も城主を替ふると八家、二十一代、柳瀬村本郷の如きは、代官を改むると、元禄三年より維新の時に至るまで、実に三十七人、地頭(采地の主)の如きも之に凖ず。 又管轄の変更甚だしく、或は川越領となり、或は釆地となり、支配地となり、田安家領となり、或は古河領、岩槻領、前橋領、佐倉領等となるもあり。 故に精密なる管轄沿革志は今より到底之を望むベがらざる也。 風土記にすら尚錯誤遺漏甚だ多し。
検地は後北条氏の頃既に行はれ、北条役帳に乙卯検地、若くは卯検地と見ゆるは、蓋し弘治元年に行はれたる検地を謂ふ。 其後天正五年にも行はれし処あり、徳川氏に至て天正十九年に行はれし処あり、其後頻りに行はれ、或は一村にして開拓に従て局部の検地続々行はるゝあり。 然れども概括して検地の盛に行てはれしは正保、慶安、延宝、元禄、乃至天保なりとす。 検地帳、(水帳)は往々にし当時名主を勤めし旧家に存す。
今正保年代の田園簿を見るに、旧入間郡の村落百八十八、六万千七百五十四石四斗余、旧高麗郡の村落八十四、一万九千九百三十七石七斗余なりしもの、元禄十五年には旧入間郡二百四十三個村、七万四千五百九十九石九斗余、旧高麗郡百五個村、二万五千四百六十六石九斗余となり、天保五年に至ては旧入間郡二百六十一個村、十万二百五十石余、旧高麗郡百五個村、二万七千四百八十五石四斗余となれり。 以て村落の愈々増し、耕地の頗る開墾せられたりしを知るベし。
耕地の開墾、即ち新田地は郡内至る所にあり、敢て珍しきにあらずと雖、福原、堀兼、入間、富岡、三芳諸村に亘る彼の武蔵野の開墾の如きは甚だ大規模に行はれたり。 殊に三富、両永井の如き、村落の堂々として、六間道と称する大道を設けて、且人馬を通じ、且境界に当て、多福寺、多聞寺の如き此較的大なる寺院巍然として存在せるを見ば、当年の事決して之を軽蔑し去る能はざる也。
鶴ヶ島村高倉に住せし代官川崎定孝の如きも頗る拓地興業に力あり。
記線に存せるを見たるにあらざれども、検地乃至開拓に件ひて勿論行はれたりと認むベきは、郡内各村にして、往々宅地段別の整然として、一定せる事是也。 例へば入間川市街の如き、入間村地方の如き、 既に頗る崩解したるものありと雖、其本来一定の段別を以て住地を定めたるは何人も之を認むる所、鶴ヶ島村高倉、 堀兼村、 堀兼の如きは尚稍々明に之を認むベく、 其他数へ来れば、頗る多きを見る。
耕地の間往々にして秣場あり、多くは荒蕪地若くは丘上、丘側の地を以て之に充つ。 秣場は大抵数ヶ村若くは十数ヶ村の入会地にして、屡々訴訟問題の因となれり。 武蔵野、阿須、石坂山(入西、今は比企郡に入る)等は其主なるものなりとす。
治水、及灌漑等も漸く行はれ、入間川の河道開鑿、荒川の移転を始めとし、小なるものに至ては蓋し少きにあらざらん。 掘割も各地甚だ多く、赤間川の如きは就中其大なるもの也。 野火止用水、並びに伊呂波樋の如きは、就中其著しきもの也。 新河岸川の如きも亦頗る人工を加へたると疑ふベからず。
村治の概況
江戸時代の村治に関しては三芳村郷土誌に載せたる所、比較的詳細なるが如し。 取捨して左に掲ぐ。
(イ)組織
徳川時代の村治は一村毎に名主なるものありて之を統べ治め。 其下に組頭ありて、名主の事務を助く、組頭は一村に概ね二名、大村には往々三名あり。 又其下に百姓代あり。 百姓代は一組必一名ありて、小前百姓を代表し、名主組頭に向て意見を陳述し、又は其事務を監視し、及組内の事務を扱ふ。 此外隣保(五戸ヲ一組トシ之ヲ五人組ト云)に一人の長を置き、之を判頭と云ひ、隣保の事務を扱ふ。 而して此等の職は総て世襲にして大なる非違あるにあらざれば、代るとなし。 故に其権力甚大、能く配下を威圧せり。 然れども其配下より過悪の生ずるを以て己の不名誉となすが故に常に百方注意して、之を戒めたり。 之を以て平素権威を振ふも下怨恨せず。 常によく相親しめり。 明治初年名主は戸長、組頭は副戸長、百姓代は総代と改まりしも、其職務は略々相似たり。
(ロ)納租
納租期は年三回にして毎期納額に一定なく、人民の任意に従ひ、最末に至り完納せば可なりとす。 この最末期を皆済と呼ベり。 併し毎期の納額は其率(全額の三分一)に超過せしめんとを勤めしめたり。 是れ皆済期に可成其苦を滅ぜしめんがためなり。 而して納租の方法たるや毎戸納租受領帳を製し置かしめ、納租期に至れば期日を定めて名主より之を通告し、当日人民は金額と受領簿とを携へ各自に名主の家に至り之を納め受領簿に記入捺印を受く。 其日は村吏員、皆出席し、事務をとれり、人民の納租してより之を領主若くは代官所に納むる間は夫役を命じて毎夜名主の家を守護せしむ、是れ公金を重んずるの意に出づる也。 又下小前に於ても納租は最大の義務とし苟も人に後れさらんとを欲し、先を争つて名主の門に至り、其開くを待てるものありしと云ふ。
(ハ)戸籍
戸籍は当時人別帳と称せり、調査年一回にして歳未に行へり、其方法は期日を定めて家長を名主の家に召集し、人別帳に記載の人名の存否を訊し、若し出生死亡婚嫁等の異動ある時は家長の申立によりて訂正せり。 故に出生の如きは二三年の後にあらざれば載するとなし、但死亡に至りては其年々に申立て除籍せられたり、是れ人別税と称して人頭税を課せられたれば損益の関する所自ら此に至れるなり。 婚嫁には送籍受籍(おちつきと云ふ)名主にて行ひがれば概ね其時々に行はれたり。
(ニ)徭役
徭役に三種あり、曰く村役、曰く領主役曰く公儀役是也。 村役は毎戸一人を順次に出し村の事業に服せしめ、領は領主の参勤交代の時其荷物運搬等に従ふ、例へば三芳村の如きは大井駅に出役せる故常に之を大井役(ヤク)と呼べり、公は多く将軍日光社参の時勤めたるにて例へば三芳村よりは多く浦和駅に出役したる故浦和役と云へり、領公は屋敷割にて、一屋敷(凡反別六町乃至三町)より一人を出す、此外又伝馬役なるものあり、馬匹を出して役に服す、併しこは各地より馬匹を出すと不便なるを以て伝馬宿、入用として金納し常傭となしおけり。
(ホ)領主村治の概要
領主の村を治むるの法は地方廻(チカタマハリ)なる吏ををき常に地方を巡廻せしめて其状況を視察し且非違を正さしむ、又其下に陸引(オカヒキ)(囚人ノナハ取ル役ナリシモ後ニハ刑事探偵ノ如クナレリ)と云ふものありて常に町村内を徘徊巡視し、悪事を探偵逮捕せり、此外に隠密なるものありて専秘密偵に従事す、此隠密は独り人民の非違を探知するのみならず、村吏官吏の汚行にも及べるを以て人々大に恐怖したり、又此外に公儀即幕府より出づる関八州取締なるものあり、これは御領私領の差なく人民官吏の別なく苟も悪事汚行あらば容赦なきを以て皆八州様と称し鬼神の如く畏怖したり。
訴訟及災禍
江戸時代は人文の比較的徴すべきもの多きがためにや、訴訟及天災地変等にして比鮫的後世に伝へられたるもの少からず。
訴訟に関しては秣場境界寺院に関するもの多し。 慶長十二年二月十一日的場村鯨井村の民原野の境界に争ひ、此日幕府之を裁したる文書、鯨井神山氏にあり、大日本史料にも見えたり。 其外慶安二年及貞享四年武蔵野新田に関する訴訟、元禄七年上富開墾地、武蔵野秣場に関する訴訟、文政元年石坂山(今は比企郡に入る)に関する訴訟等あり。 寺院及壇徒等の争の如きは決して珍しからざる也。 災異には元禄十年大地震あり。 十六年復関東地大に震ふ。 寛永元年利根川洪水、四年遠江に地震あり、次で富士山噴火し、山腹に寛永山を作る。 寛保年間の水災には奥貫友山慈善の事あり、天明三年浅間山噴火しゝ被害方四十里に及び死者多し、六年大洪水あり。 隅田川の如きは一週日にして水漸く滅ず、七年江戸町民の蜂起あり、寛政二年大風雨出水、天保四年大風雨、五年飢饉嘉永六年地震あり、斯の如きは偶々史に見えたるものを拾へるのみ。 暴徒も西より来て川越付近を荒涼したるとありき。 川越以下火災も少からず。
茲に今日にありて珍とすべきは江戸時代の中頃まで猪狩の行はれたりしと是也。 植木村鹿飼はシゝダメとも称せられ、宮寺三ヶ島山口三村の境には猪落し穴あり、 大田村豊田新田の大堀山には猛獣(恐らく猪)出現の朧ろなる伝説あり。 川越廓町北野氏の日誌には享保年間、柏原村武蔵野に於て猪狩を行へること見えたりと云ふ。 猪既に住す。 狐狸をや鹿兎をや。